台所から宇宙へ57

虫の合唱があちらこちらで聞こえて、すっかり秋の気配が増してきました。また、連日の夕立ちにより、山の木々は一息つき、活き活きとした緑に戻りました。そして、早くも県北では稲刈りのコンバインが走り、黄金色とまではいきませんが稲穂が黄色く実り、台風の影響もなく収穫ができることはありがたいことです。それを目にすると、稲刈りだけでなく他の収穫の忙しい時期にこれから入りますが、一年はなんと早いのでしょう。ついこの間、春巻きのタネを手にして土に撒きましたが、今手のひらにあるのは秋蒔きのタネです。寒さに耐え育ちますようにと祈りながら土の上にしゃがんだのが、昨日のように感じます。一年の巡りは、本当に早いのです。

人生の中の点と歴史の証言

先日、ある山の製材所の方から、山の事を知りました。木の目利きからしたら、最近の杉や桧には通常つかない土青カビが多すぎているとの弁。それは何を意味するかと言いますと、虫が激減して緑カビが大量に増えていることだそうです。つまり、山の菌の比率が浄化をオーバーしているという事だそうです。山には色が有りその色の変化が最近では早く、さらに潤いが足りなく山が疲れていると表現をされました。それは、山肌の色(菌の色)を見てわかるそうです。菌の色が緑から赤に変化をして崩落したり、岩石が白になると風化して地盤沈下が始まりその上に次なる植物が生える。これを「山が歩く」や「山は独り歩きをする」というそうです。そうすると田舎では、崩れると家移りをすれば良いですが、これがもっと大規模化して町に影響が出てくる前に、止めないといけないと言われています。

さらには、本来の林業は山の波動調整をしていたと言われます。山は香りと音で繋がっており、日本の山の木々は全て連絡をしあっており、その木々の会話の中に入るのが林業との事でした。現代人は山との会話を忘れていると。「林は お囃子」と言うように、リズムを合わせる、即ち波動を合わせるのに、ゆっくりボチボチとあわせる。その為、荒天の日に林を見に行ってたそうです。山の湿度と風との対話。波動が狂うと木に傷ができ、菌のゾンビ化が始まる。その現れが、山肌の菌の色になります。まるで、映画の世界がまさに自然で起きているのです。これは手入れを間違えた林業になっている為、この方は、先人の言葉や言い伝えを継いでいくのに、話してくださいます。

また、身近な事では最近、山の自然の恵みをいただくということから、自然の恵みを取りに行くという表現に変わり、現象の一例として、山菜とかヤマツツジがめっきり減っているそうです。例えば、昔から田舎では食用きのこを取りすぎると、「毒が降る」と昔の人は言っており、上流部で取る風が下方へ降りるので、取りすぎないことを守って来たそうです。それに関して先人は、山は必ず「取られたら 取り返す」という言葉を残しているそうです。山の生態系は現在パワーを上げて浄化をし続けていると言われます。まさに、自然と書いて「自ずから 然らしめる」です。しかし、よくよく考えてみますと、人間の行った人工的な弊害は、行なった者の責任になります。

このお話の流れで知ったのですが、昭和40年代に林野庁では地拵えや下刈りなど森林整備作業労力軽減のために、2、4、5ーT(トリクロロフェノキシ酢酸を有効成分とする)農薬を、国有林で除草剤として使用していました。ところがその製造過程でダイオキシン類が極微量に含まれることがわかり、ダイオキシン類による催奇形性の恐れがあるという指摘から昭和46年使用中止とし、ダイオキシン類の有効な無害化処理技術が無かったため、当時農薬登録されている薬剤が人手に渡らないようにする処分方法として、「毒物及び劇薬取締法」の定める方法に基づき、地下埋設方法が実施されていました。(林野庁の埋設・管理している2、4、5ーT系除草剤を参照)現在、その薬剤は峰筋近くを選定し埋設されており、埋設場所は公表されていないので、林道開拓の時、さらにはリニア工事などは林野庁と密接な連絡が必要とのことでした。振り返れば、この一例に限らず、近年のソーラーパネル、核燃料廃棄物埋設、未使用農薬埋設、建材の産廃と次から次へと知り得た時、「自ずから 然らしめる」は、我々人間に帰ってくると言うことは間違いないです。昔の山への畏敬の念を忘れたマツリゴトにより、行き先不明の現在です。山はダイオキシンやセシュウムなど、全て黙って受け入れてくれています。きっと人間など当てにせずに、山は菌と協力しあって自ら修復をして行くのでしょうが、人間がしたことは人間のこと。これから、時代の変革期に代償は始まることでしょう。それでも、少しずつ人間のできる修復技術開発と自然への謝罪と、後のものへ伝えることは必須でしょう。

よくミクロコスモスとマクロコスモスの相互の考え方がありますが、生活の足元でできることとして、例えば、家庭菜園、ベランダでのプランター栽培による植物との関わり方を、身につけるのも一つではないでしょうか。子供の頃から、作物や植物が生活の中にあり、会話をしながら育む環境が、子育ての一番の基礎であるように考えます。自分で育てたものは、「美味しい」と十人中十人がいいます。やがて、集団世界になっても相手のことが分かる子どもが多くなれば、言葉に出さなくとも波動で交流ができ、次なる道へ進めると確信します。そのために、いっとき親世代の方の努力は必要でしょうが、暮らしやすくなると流れは変わるでしょう。やがて、河川の水と同じで水量が増すと風が吹き、大きく変わる。この足元からできる、「自ずから 然らしめる」の道へ進む事しか、今の地球には残っていないと考えます。

最後に思い出したことがあります。戦後の復興時に、日本全国の山に植林をした社長さん曰く、「自然林を、杉や桧に変えたのは間違っていた。」と言い、寂しくお別れをした方いました。また、木材輸入拡大推進に乗じて、インドネシアなど南アジアからの外材を輸入し、大阪湾の貯木場整備、拡充に尽力をした方に出会いましたが、出会った時はすでにバブル崩壊後で、老後は日本へ帰国することもなく国外で静かに暮らしていましたが、口に出さないものの背中は寂しいそうなお姿が忘れられないです。歴史を振り返り、その時代の真っ只中では一生懸命でしたのでしょうが、大きな流れから見た時、人間は何が正しいのかと必ず振り向されるような気がします。まさに、「自ずから」が発生をするのでしょう。