人生の中での出会い2

戦後復興の中、東京という地で自営業を営む両親のもとに生まれました。父は、新幹線の部品を作る旋盤を使う職人肌の強い人でした。母は、弟妹の世話をした長女という事もあり、郷里の地場産業を扱い、よく働く人でした。当時、五軒長屋の商店一画に住まい、大人たちは皆遅くまで働いていました。ですから、子どもたちは五軒長屋の仲間でよく遊んだものです。更に遊び場は、連立するデパートから公園、区役所、銭湯等まで、事欠きません。その中には、デパ地下の食料品売り場、公園の紙芝居からガマの油売りの手伝い、区役所の中の探検、銭湯のボイラー室など、今振り返れば子供たちの行動範囲は自由だったのだと思えます。と言っても、この遊び場は楽しいだけではなく冒険心と恐怖心は背中合わせでもありました。区役所の鉄扉が開かずに家に帰れないと思った瞬間や材木屋の大火、まだ街中に居た傷痍軍人やGHQのアメリカ兵など今の時代にはない空気感があり色々です。只、今のように携帯は無かったので、約束の時間に帰宅をしないと両親の雷は一番怖かったです。面白いことに携帯は無くともいたるところで近所の大人たちの目があり、子どもたちがどこどこで遊んでいたという目撃情報が、大人同士で交わしていたようで、ある意味アナログの良い時代だったのではと思います。一日中遊び疲れると、商売上夕食が遅いためそのまま食べずに朝まで寝るなど、体の赴くままに成長していた時代でした。

ところが就学をしてからは、机に座り黒板を見るより高窓から見える空を見ることが多くなりました。答えは、学校の勉強は面白くないということです。やがて、この子共の性質を伸ばすには私学が良いとのことで転校になり、武蔵野丘陵地帯へ通う、一時間半の通学電車に乗る事になりました。車中は、通学範囲の広い同級生たちとの遊び場でもあり、更に宿題の答え合わせの場でもありました。また、幼稚園から大学までの一貫校の為、電車の中で気分が悪くなる生徒が出ると、先輩の大学生が看護をし、通学時間の電車の中は大家族みたいなものでもありました。今みたいにマニュアルは無く、状況判断で自主行動をとることは、後輩にとっては良いお手本でありました。

そして、転校は正解でした。机に座る時間より自由研究や屋外での活動時間が多く、今思えば、都会での行動範囲が武蔵野という自然界に移動したようなもので、学校を休むという選択肢はありませんでした。カリキュラムは、国語、数学、理科社会、そして英語とありましたが、むしろ田植え、稲刈り、豚小屋作りから池つくりまで、労作と自由研究という生活に根ざしている学びの方が、楽しかった思い出です。あるところまでは、自由に遊ばせてもらった幼少期。そして、行動の中から疑問を抱き、答を探し学んだ学童期でありました。五感と、脳の発達に大きく影響を与えてもらったことは間違いないです。更に学童期後半以降には、人物からの影響がありました。当時、世界に影響を与える人物と出会う体験が待っていました。