高度成長期からバブル崩壊、更には30年の低迷期の中、家族を持ち子育てや、介護の流れの中、一番印象にあるのがこの流れの中をいかに健康で生きてゆけば良いのかに、時間を費やした気がします。嫁ぎ直ぐ、舅の入院に始まり、姑の更年期、子どものアトピーから喘息など、主婦業前半はその対処に翻弄し、ある時から同じものを食しても病気になる人ならない人の違いが何であるか、疑問に思い始めていました。やがて、子どもの登校拒否のストレスから自身のヘルニアをきっかけに、金融機関から小さな医療機関への転職となり、体の仕組みを知り得る環境に出会いました。またこの転職では、お金の価値を考えるきっかけになりました。それは、金融機関の窓口では、預金をしていただきお金を受け取るとお客様に「有難うございます。」とこちらが御礼を言います。しかし、医療機関の窓口では、受付に座り治療費を受取るだけですが、患者さんから御礼を言われることにある意味カルチャーショックで、このようなお金の世界がある事に暫く慣れるまで時間が必要でした。
この転職に至るまでには、家族の病気や入院により、西洋医学、東洋医学、漢方、代替え療法、自然食等々、近県を走り回り家族の健康作りを模索しました。当時、西洋医学で改善が見受けられないと、次は東洋医学や代替療法へ。それに並走して食事療法へと、健康作りに奔走します。最後行きつくのが、食でした。昔からこの国では、米や野菜は勿論の事、味噌、醤油などは自給自足が成りたっていました。そこで、せめて毎日使うものは自分で作りたいという思いから、小さな畑を借り、足りないものは自然食の会に入り、会に参加している農家へ出向いては手伝いながら食の事を学び始めました。
当時、せめて農薬を使わない野菜が食べたいという思いで、会の農家さんに教えて頂いたのが、日本の農業を危惧し、実践されていた方の自然農でした。1930年代に横浜税関植物検査課へ勤務していた福岡正信氏は、検査室の顕微鏡の中の世界を見て、日本の農業の行く末を憂い、郷里へ戻り帰農され自然界から学びながら自然農を確立していきました。そして、地球規模での砂漠化、緑の喪失が深刻化して行く中、活動は世界へとなり、むしろ日本より世界では有名な方のようでした。その方の農法知識を得るのに書籍を読みますが、実践では中々難しいのです。現場に行き直接教えを乞いたかったのですが、既に仙人に近い生活をされてた為1980年代に同じような農法を実践されていた川口由一氏を紹介されました。福岡氏が実践されていた頃、川口氏は専業農家の長男として生まれ、12歳の時父の死を境に農業に従事します。高校進学はできず唯一好きな色鉛筆の光の世界で自分磨きを、農繁期以外のスケッチの旅で磨いたようです。やがて、農業の機械化や農薬の普及で自身の体を壊し、農業に光が持てなくしていた時、旅から戻った日大和盆地の自然界の美に目覚め、自然を教師にその土地に合った自然農を実践してゆくようになりました。
川口氏の田畑で目にしたのは、田の水は少なく土は隣の慣行農業の田より高く膨らんだ中に稲がたわわに実っていました。また、畑は木の足元に草と共存しながら野菜がなっています。まさに絵になる楽園のようでありました。耕さず、持ち込まず、虫を敵にしないを基本に、師の背中は土地の声と対話をしているようでした。そして、実りものや野花のスケッチのテキストには、「足るを知る」の言葉が添えられ、農法よりも自然界の観察文が多いものでした。また、農薬の普及で自身の体を壊した氏は、野草や漢方で自ら研究をして自身の体を直し、その方法を農業と一緒に指導されていました。自然と共に生きるとは、農法の答は自然の中にあり、自然が人生の教師である事は福岡氏も川口氏もともに共通をしていました。
その後、真似事みたいに作物を作りいただくのですが、何かが足りないことにその後も気づかされ続けます。無農薬、無肥料の作物を口にしたからといっても、家族の健康が全て改善されるわけではありませんでした。答えが分かるまでは、痛みや病気は続きました。