私は同僚との会話で、徐々に会社の仕事のことを思い出し現実が蘇ってきた。そう、私は同僚が話すように仕事に追われていた。営業部とは言って部外の業務までも任され、毎日建設中のプロジェクトの事務処理から現場で発生した問題対応に追われ、時には徹夜になることさえあった。同時に部内では新規顧客獲得のための厳しい目標が設定されていたため営業周りも欠かせなかったのだ。私は若さに任せて自分を顧みずひたすら仕事に打ち込んでいたのである。そして、休日でも自宅で仕事をするありさまで宙美からも、
「家にいるときぐらい仕事やめたら。」
と、よく言われていたことを思い出した。
私には今のように落ち着いて考える暇など全くなかったのだ。完全に仕事に飲まれてしまい自分の人生についてなど考える余地など全くなかったことに今はじめて気付かされた。それどころかそんな「生」や「死」といったようなテーマが頭をよぎることさえ全くなかった。私は、
「もしかしたら交通事故に巻き込まれたのは、自分を大事にしないから神様からのばちがあたったのかもな。」
と独り言を呟いていた。
私はこれが自分を見失うってことなのだろうなとつくづく思った。そして、こんなことでいいのかとさらなる疑問を持ち始めていた。
月日が経つにつれ、私はある程度体が回復した段階で少しずつリハビリをはじめることになった。そして、軽傷だった脚の痛みも無くなると病院内を動き回るまでに回復したのだ。
院内には広いデイルームがある。そこにはいくつもの椅子とテーブルが用意され、食事も出来るように給湯器と電子レンジが配備してある。テレビも備え付けられているため私は午後の時間そこで過ごすことがよくあった。宙美に頼んで自分のノートPCを病院に持ってきてくれないかとお願いしたが、入院中は駄目とことわられてしまい仕方なくテレビを視聴していたのだ。多分、宙美は私が病院で仕事をやりだすのではないかと思ったのであろう。
そんな入院生活で私は初めて昼のワイドショーというものを見ていた。芸能界や政治、経済、そして流行りのことなどを話題にし、司会者やコメンテイターはいいたい放題批評したり批判したりと聴いている方もなるほどなと思わせるほどの説得力があった。私は営業職をしている割に政治や芸能界のことは疎い。もちろん顧客先での話題作りのためある程度のことは知っているが深くは分かっていないのだ。しかし、テレビを見ていると意外と面白くなり始め、司会者やコメンテイター、評論家の説明に聞き入った。
今、経済や政治がこんなことになっている理由はそのためだったのかとか、巷で流行っていることの発端がある有名人やアニメの影響からだったのか、などさまざまである。
しかし、毎日おもしろく見ていた私だったが、いつしか空しさを感じ毎回同じような内容に飽きはじめてきた。そして、疑問が湧き始めたのである。私は、
「テレビ番組内で言っていることを何も考えず鵜呑みにしていてよいのだろうか。
こういう情報を知るとそれが先入観となってすべてその色眼鏡で物事を判断してしまったり、流行に乗せられてしまうのではないか?」
と冷静にこころの中で考えていた。
経済の話なども評論家が円や株が上がった下がった理由はこのためだと説明し、だから今後はこうなりますともっともな理屈を付けくわえて評論したり、または、政治家が汚職やスキャンダルや選挙違反でどうのこうのと事実か否かわからないが永遠と議論し批判している。またスポーツや芸能界で問題を起こした人物があれば全局で一斉に同じような内容を話題にして叩く。私はそれらを視聴している自分自身を無意識に客観視していた。私をもう一人の私が観察しているのである。そのとき自分の感情がテレビの情報に反応しコントロールされていると直感した。
「これら情報は世論をそこに向けさせ、何か肝心なことに意識がむかないように、または考えさせないようにしているのではないか。」
ということに。
その直感が私に怒りのようなものを起こさせ、それを感じているもうひとりの自分がいた。私はそれ以来テレビはあまり見なくなっていった。同時に新聞、雑誌も同様だが、インターネット上の情報は特に注意が必要な媒体だと感じ始めていた。私は、今頃になって情報というものの恐ろしさを知った。
「上手くやれば情報でいくらでも人間をコントロールすることができる。特に思考が停止した人間には。それはきっと人間のもつ喜怒哀楽と言った感情や欲や妬み嫉妬に漬け込んだネガティブなものだ。」
とまたも私は小声で独り言を言っていた。
皆、仕事に忙しくしていたり、生活に困窮した状態であったり、趣味やお金儲けに必死になっていたりと、そんな状況では冷静にメディアなどによる大量の情報の精査など出来ないし、時間があってもしないであろう。そうなると声の大きいものの情報だけがインプットされそれだけで感情を揺さぶられ世の中を見る。
私は交通事故でいまのような状況になってしまったが、案外冷静に思考する機会が与えられ幸いだったのかもしれないなと思った。