台所から宇宙へ26

またもや、熊が出没しました。山裾の柿を収穫するために、夜中に出現。自然界は、すでに冬に向けての準備が始まっているようです。そして、人間界も同じです。畑では、小豆、ササゲ、大豆の収穫に始まり、栗や柿、芋の保存に忙しくなりました。軒先に、オレンジ色の渋柿が吊るされると、もうすぐお正月と思わせられる合図になります。

「子どもは神様からの預かりもの」

“三つ子の魂百まで”とよく言われますが,三つ子とは数え年の年齢で言う二歳児の頃のようです。その頃には歯も生え揃いはじめ、咀嚼しながら飲み込めるという、動物で考えるなら一人で生きてゆく為の最低限の能力を獲得する時期と言っているようです。そして、三歳で脳の八割方の形態が出来上がるとか。この三歳までが、生きてゆくための必要な機能や能力が備わるという事で、それが一生を左右するという百までという表現であり、この時期の親の役目は特に大きいことでしょう。ともすると、保護が過保護やはき違えると所有物のような取り扱いとなり、持って生まれた魂の成長に色々と影響を与えます。勿論、我が子も過保護やはき違えの対処により、紆余曲折をして今日に至っています。そして過保護や所有物的態度を卒業するきっかけが、子どもの喘息や登校拒否、引きこもりだったように回想をします。

話は変わり、今庭先の畑には、五年目キャベツが鎮座をしています。それは、成りたいようになり続けるキャベツなのです。ここに至るには、子どもが親元を離れ自分時間もできた頃、植物を育てる事に目覚めた時でした。何故か、植物の世話をしても何時も枯れたり、育ちにくいという事を経験し、その原因を知りたく模索しました。本を読んだり、上手に育てる人の傍に行ったりと、原因探しに暮れました。やがて、味噌作りから物と対話をすることに始まり、植物や作物との対話に発展し成長を見守るようになりました。ある時、既存の苗を求めて野菜を作る中、毎回苗を求めることにふと疑問を持ち、このまま収穫後の根を残したらどうなるのか試してみたのです。そして、その出発がキャベツの苗でした。越冬には落ち葉をかけて、時々様子を見ては春を迎えました。すると収穫後の根から茎が伸び、小さな葉が姿を見せだしました。思わず、元気で良かったと声かけをしてから観察をしますと、触らずに様子を見ていてという感覚が伝わってきました。やがて初夏になると少しずつ葉が巻き始めて、またキャベツの姿を見せてくれました。そのまま二年目に突入です。次の春は、茎が何本も出てまた葉をつけました。このままどうなるのか見続けて五年目です。そのプロセス中、人間サイドが育てているのではないと気付き、「あなたの成りたいように なってね」と伝えてからは、益々伸び伸びと成長をして、ボク(樹)のような茎に握りこぶしほどのキャベツを、幾つも咲かせると言った表現の姿になりました。今では、「今 食べて」とか「今は 食べないで」という事が、伝わってくるようになりました。自ら成長するにあたり、樹から出ている成分の出る時期が色々あるみたいで、食べないでと言う葉をいただいてみると苦かったりして、作物は意思表示をしている事が分かりました。既存の畑に出来るキャベツの姿ではありませんが、春から秋にかけては隆々と実をなり続け、樹で越冬をして時を耐える生き方には頭が下がります。

このキャベツを見ていると、巷で言う魔の二歳児と言う子どものイヤイヤ期に、やりたいように経験することで、やがて自ら自分と向き合い子どもは成長していくような気がします。後は、親として何事があっても毅然として対処ができるか、また子どもにその時々に必要な愛情を判断し接して、何処までも見守れるかと言うことではないでしょうか。子どもを信じて待っていると、やがて子どもは自ずと持って生まれた魂と向き合い、自分の本分を見つけ生きてゆき、人へと成長をしていく気がします。