台所から宇宙へ23

サンサンと言う台風十号が迷走中、何事も無かったかのように晴天の中,無事散骨が執り行われました。今回は、会員さんで看取りの仕事をしたい看護師さんが一緒に乗船されました。この方は、看護の現場で、人の死が流れ作業になりがちな仕組みに自問自答しながら、命というと捉え方を模索していたそうです。やがて結婚をし、保育園に長子を預けながら勤務するも自問自答が更に深まり、いったん子育てに集中をします。特に子供たちに伝えたく、命の現場を共にしたく、末子は自ら自宅出産を行い、只今子育て奮闘中です。そんな中でも同じ志を持つ仲間と「命や性について」のミニ劇で、親子クラブをまわっています。そして、子供の成長と共に時間を作り訪問看護も目指しています。最期まで自分らしく自宅で過ごしたい方と関わりたく、自分の役割に自覚をはじめて、看取りの仕事を目指しています。昔の言葉を借りれば、まさにゆりかごから墓場までを仕事として、歩んでおられるようにみえます。

さて、ひとの一生は沢山の経験と思いの中で紡がれていきます。この度の散骨のお骨には、その方の生きていた時のデータが含まれることが分かりました。よく「骨身に沁みる」と言う言葉がありますが、両親から聞いていた事以外のことが、お骨から感じさせられました。その感じたことが、次の代でも起きているとしたら、これもカルマの一つなのかもしれないと考えます。

病気がちと聞いていた祖父の場合、当時丁寧に食養生をされていた為か、現代の薬を服用している骨とは違い、とても骨の状態が良いことにビックリいたしました。その分、病気がちの主人を抱え更に娘二人を亡くした中、家計を支えるために女手一つで生きてきた祖母は、まさに「気骨」という言葉が当てはまる位の骨の状態でした。それにより今回、お骨になっても人の生きたプロセスの情報が蓄積されているという事に行きつきました。そして、その人の歴史を知り得たうえで、改めて今こうして生かされている事へ感謝をして素へと送り出させていただくことは、単にお骨を散骨するだけでなくオマツリとしての大きな意味がこれから波動で伝わっていくことでしょう。

台風後の風を考慮して午後の出港となりました。台風がまるで清めて下さったかのように巨大なタンカーが遠くに見える以外他の船が一艘もいない静かな広い海は貸し切り状態でした。司会の方の清らかな言葉の響く中、マツリヌシの御言葉にて送り出された散骨後は、献花の花びらがキラキラと夕日により輝きだしました。やがて何処からともなく花びらの渦にカモメが五羽現れ、暫く別れを名残惜しんでいるように見えたのは偶然でしょうか。それは、実質散骨ができたのは五人だったからです。お一人は兵につかれていたと聞いており詳細は不明でした。その為、お骨が無く同じお墓におられた奥さんの横にあった土を少しすくい上げて、海へとお返ししたからです。同席してくださった看護師さんも、献花の渦を見つめながら思いにふけ、時々涙ぐまれている姿に家族よりも感慨深げな姿が印象的でした。

帰路、船内で看護師さん曰く、一番印象に残ったのは「海より出でて 海へと帰る」という意味が感動的であり、まさに子宮の中で十月十日の間、生命誕生のプロセスが地球誕生のプロセスと同じ道を歩み、世に出てやがて命が終わると海へと帰る事は、一番納得をして自然の事であると腑に落ちたそうです。

翌日、マツリヌシとして最後の仕事は、散骨に向け用意をしたものをお焚き上げします。今回、そのものが燃え終わるその時、最後の燃えていた封筒が六、七分燃えて、灰になるのを確認待ちしていますと、突然その灰になりかけているところから、沢山の5~6㎜の小さな玉の燃え上がりがおきました。これにより、墓仕舞いが確かに終わった事を知らされたものとなりました。何時も思うのですが、マツリヌシをさせて頂くと、見えないことも見えることも必ず証をいただくという事です。それは、現世界ではヒトが動きますが、それと共に精神界も共に働いて下さっていることを、何時も実感致します。そして、それは必ず証で確認ができるという事です。

現代、今だけ、金だけ、自分だけと言われる世界だけしかクローズアップされませんが、これからは殺伐とした世の中になるほど、見えない世界も共に存在し生きているという実感が出て来る事象が増えてくると感じます。すでに先日も、ある一例として当方に訪れた青年が、街の自宅の水で顔を洗うと沢山の人の顔がまとわりつくように見えて、トラウマになりかけていたところ、当方の山の水で顔を洗うと何も見えず、身体がすっきりとするという事象が起きました。水は情報を記憶するとすでに科学でも言われています。人間の身体も60から70%が水分と、大気中にも水分はあり、ありとあらゆるところで水に関わりながら生活をしています。そのことにより、これからいろいろな見えない世界の情報をキャッチする人は増えていくことでしょう。特に、子供ほどまだ繊細な感性を持っている段階で、体験は多いでしょう。それに伴い、人間の構成されている肉体、心、精神と言う基礎知識がこれからは必須になるはずです。この知識は、明治以前は当たり前に生活の中にありましたが、途切れた150年程を最速で取り戻す時代に入る事でしょう。そして、その事象に伴い人の誕生から死までの営みに、更に歴史に関するすべての事柄に、マツリヌシは共に歩んでいく時代に入ると考えます。

お墓は亡くなりましたが、この体の中にご先祖様は内在しており、引き継がれている遺伝子情報の更新で気づきの場面では、日々改め感謝の生活が供養となるような気が致します。お墓無なくとも、この人の姿がお墓に変わるものと考えます。