台所から宇宙へ17

立秋に向けて、酷暑を乗り越えるひと時として花火大会が各地で行われていますが、風は日に日に秋風に変わり出しました。何時ものように夕暮れ時の畑には、トンボの大群が雄大に飛び回っています。この飛び回るトンボの大群を見続けますと胸が熱くなり、ある事が蘇ります。それは、2015年8月1日、大分でのカウンセリングの事で、テーマは「戦争の責任」です。

それは、大分に向けて陸路を走り朝方サービスエリアで仮眠中、夏休みを利用して同行していた孫からバッテリーが上っているとの報告を受け、慌ててロードサービスへ対処を依頼。バッテリー交換の事態なので、エンジンを起動したらこのまま車専門店かディーラーへ持ち込むようにとの指示を受けました。車も夏バテかと思いながらカウンセリングまでに間に合うようにと祈りました。市内中心部より少し外れた運動公園近くのディーラーまでとりあえず自走し、スタッフの出社を待ちました。無事、バッテリー交換後何事も無かったかのように、時間通りにカウンセリングはスタートできました。

今回の自分のテーマとしては、父を看取り今までの人生が一つ終わり、本来の自分の人生を始めたく申し込みましたが、身体にノイズがありこのままでは進めないとのことでした。申し込むまでは、身体的に歯の治療から、台風発生時からの腰痛、足は痛風みたいな痛みに襲われ、色々と手当てをしましたが変化がなく、これは自分では対処できない事に気づきカウンセリングの申し込みをしました。申し込みをしたとたんに痛みが消えて、これはカウンセリングレベルである事が分かりました。

やがて浄化上昇後積先生の解析にて、戦後70年の軍人系と戦争遺族のデータと判明。何も戦争の事を教えてくれなかった父も死に切れていなかったとの事。「戦争を体験していない者に、分かるまい。」と口癖だった父は、何時も怒りを内包していた人生のように見えてました。その子供は、魂的には三歳までの土地の影響を受け、更に親族には戦争開始から戦後処理まで関わった者がおり、大人になってからは戦争遺族者との交流など、どうも変わった人生を歩んでいたようです。巣鴨プリズムの近くで遊び、小学生時には毎年九段会館での遺族慰問に参加。大人になってからは、戦艦大和の図面を見せてもらい、大和を造った父を持つ人に出会い、大和が沈んだ音を聞いていた方に出会い、更に自社敷地に海軍記念館を創設した社長さんとの出会い。

本来なら親の代で戦争と言うものをもっと思考し、事実を次の代へと伝えておくべきものがあったのでしょうけど、経済成長へとエネルギーが注がれ今に至っています。其の戦後処理のためにこの身が使われていた。その戦争というテーマで、戦後の日本の事情を解決しないと本来の人生のハタラキができないとのこと。そのノイズとは「戦争責任」ということでした。そして、積先生のヒストリーと重なっていたこともあり、大分の地から終戦の日に最後の特攻として出陣をしていた方々がいた事を知りました。学校では習わない、責任の取り方を知りました。そして、その方々の慰霊碑が元大分空港跡地の運動公園に有るので、積先生の名代で御挨拶へ行くこととなりました。地図を貰い驚いたのは、今朝飛び込んだディーラーの道を挟んで向かいの公園でした。

旧海軍大分航空隊基地の跡地は、現在大洲総合運動公園となっており、慰霊碑を目指し歩きます。無風状態のセミの声もまばらな何とも動きの無いうす暗い空間を進むと、一角に「神風特別攻撃隊発信之地」碑がありました。昭和28年8月15日、(宇垣纏中将率いる22名が搭乗した11機)特別攻撃隊この地より出撃せりと記されていました。その日、最後の特攻隊の事を始めて知り得、その中将の宇垣氏は岡山県出身で更に大和の任務についていた事など、歴史を知らないことや先人の方々のハタラキにお詫びと、この日本の地に今生かされている事への感謝の祈りを捧げました。積先生から預かった積酒を慰霊碑の周りに注ぎ、孫と他の会員含め四人でご挨拶をしました。やがていつしか慰霊碑の周りにはどこから現れたか分からない無数のトンボが直下降に降りてきて、私たちを取り囲みました。その中の一匹が祈りを捧げる碑の少し上で、ホバーリングをしてこちらを向いていました。その姿はまさしく飛行機に乗った特攻の方々に見えました。孫たちも声の出ない状態で暫く手を合わせて祈りました。やがて、祈りが終わり碑の周りが明るくなると、碑の上でホバーリングをしていたトンボを先頭に、トンボの一群ははるか上空へと消えていきました。と同時に碑の上の樹の茂みから、突然二羽の鳩が海の方へ飛び立ち、意が通じたと感じえた感覚が一同に伝わり、命の若しくは意識の不思議さを経験させていただきました。

会ったこともない亡くなった方々と、時空を超えて意識が繋がった瞬間でした。それは、その方々が生き抜いた人生と、今生きている私たちの人生が、一直線に繋がった瞬間でもありました。体は亡くなっても人の意識は消えない、と波動的に理解した日でした。このことにより、父のなしえなかった事を継承し、これより先の人生をどう歩むかが明確になりました。