暫くお休みを頂きましが「波動の哲学」を再開します。
季節は春より夏に変わりましたが、それと共に台所も文化住宅の台所から田舎家の台所へと移転しました。即ち、実生活が内海の塩風が吹く地域から山風の吹く山裾地域へと台所は変わりました。そのことにより今では、日々目に入るものが新鮮で発見が多いです。そして、何より食材の命が発生する土が、生活の中で身近になりました。
ここへ至るには、前にも記述しましたが幼少期から成人に至るまでの体験、子育てや両親との生活環境、それに伴う経済環境を含め、常に直観的にまとわりつく不安からの脱客が一つのテーマでありました。大都会に生まれて学生生活は自然の中で時を過ごし勉強は私学での自由な身から、我が子の子育ては教育県No1での環境の中にあり、経済は高度成長から崩壊に向かう兆しの中での人生において、昨年最後の親を送り終えた時、自身の残りの人生をどのように生きるかという事が鮮明になりました。その根底には、なぜあの親の元に生まれ、色々な経験をして、自分の存在テーマを知り、何処へ向かうのかという事が漂っているからです。
十七年前、ご神木との出会いを書きましたが、この度の移転もご神木のご縁により始まりました。以前より子育ては田舎での環境を希望していましたが、両親の築き上げた生活環境の変更は同意が得られず、経済上の点からも叶わず今に至っていました。しかし、これからの世の中の事を考えると正しいのであれば、進めるものと思えていました。それがやっと時が来たと実感しています。
自然界から離れ、物質界に傾倒している現在、人は「普通、老後は街へ下りるのに、これから山へあがるのは変わっているね。」と言われますが、この国では自然界と共生して生きている歴史が今一度必要になると思えてなりませんでした。それは、小さな子どもたちの声を聞くにあたり、余りにも「疲れた。」「温泉へ行きたい。」「癒される所に行きたい。」という言葉が発せられることにあります。これは子育ての親が言うのならまだしも、子どもの声から出ることはこの国の危機と感じます。若しくは、親の口癖なのか代弁なのか…本来は、遊びが面白くて家に帰りたくないほどの状態が子どもと言うものではないでしょうか。
もう一つの理由は、人の死が自然のリズムから遠のいているからと思えます。出来る事なら、ベッドの上でなく先ほどまで草取りをしていて終わっていれば最高に思えています。最後まで働くまたは役に立った状態で終わりたいのが人間の本質にあるのではないでしょうか。そして、肉体は山や海の中で更に微生物の為に役に立つ循環に戻したならば、自然界も納得をするのではないでしょうか。
その様な事を考えていた中、今年は少し早い桜の開花と同時に予想外のなごりゆきの中での移転でありした。慣れない雪と山風の吹く地域の出会いは、新鮮さと不安とのシーソーでした。それでも田んぼの中に雉の姿を見た時には、何か嬉しく生きる勇気をもらいました。