人生の中での出会い7

「金の卵」時代の名残を経験。

昔から日本では、労働人材を「金の卵」と表現する言葉があります。特に戦後第1次産業から工業産業を支える高度成長期に、地方から人材を都会へ都会へと集中移動しました。更に、オイルショックを境に、人材投資から設備投資へと方向が変わり、教育も技能教育から知識習得教育へと連動して現在に至っているようです。その変動期に、その社会の中へ入っていきました。

1973年のオイルショクを目前に、父はサラリーマン生活にピリオドを打ち、郷里の地場産業の織機事業を兄弟で始めました。山の手線が数分おきに来る生活から、15分から30分に一便のローカルバス地域に転校し、更に転校先は京大・東大コースの道で、今までとは真逆の学生生活に入れられました。おまけに国語の先生からは「お前の言葉使いはおかしい。」と言われ、苦痛の進学環境から学校嫌いに輪がかかり、勿論私学へ転校となりました。ここで唯一の楽しみはマイカー取得により、行動範囲が広がった事です。それは、自転車です。自力で行動範囲が広げられる自由は、違う意味で更に好奇心を旺盛にしてくれるものです。

私学に場が変わっても、人生の進路と言うものを考えないわけにはいきません。当時、大学進学率が90%時代に入りかけていた時、保母(保育士)さんになりたく進学を目指しましたが、数学と声楽の点数が足りなく諦めました。そして、何故か数字の世界の銀行へ身を置くことになりました。社会はIT含め機械化への設備投資に力を入れ始めていた為、サービス業務においては、大学進学率による人材不足が生じはじめていたので、商業科を出ていなくとも高卒採用は別の意味での「金の卵」の時代にありました。

銀行といえば、三時にシャッターが閉り楽な仕事かもと勝手にイメージをして、受けました。面接時には面接人の頭上には頭取の顔の額があり、真正面を見れば、同じ顔がある事に気づくと、一気に緊張したことを思い出します。入行が決まると卒業式の翌日から出勤です。当時、卒業式前にリアルタイムで放映された、あさま山荘事件を見ながら事件の背景や世の中の事を知ることもなく、そのまま銀行生活に入りました。算盤からお札の数え方までの練習で一日が終わります。つまり、算盤ができずとも採用された時代だったのです。やがて、日々金銭の動きの利息を算盤ではじき原本へ記載。公共料金の引き去り日には、その地域の世帯数のほぼ六割程度が対象となりましたので、残業です。三時以降、銀行員は何をしているのかと親戚や近所からよく尋ねられたものです。やがて、オイルショックも一次的みたいな空気の中、預金金利は8%代に上がり、ミニ賞与も含め年四回というボーナス支給の時代が到来。また、大手企業本社の給与袋詰めという作業では、ジュラミンケース2~3個分のお札を数えます。よく銀行ではお札を扇型に広げて、五枚ずつ裁いて数える光景を見ると思いますが、当時1,2,と数えた10万円が自分の給料かと思いながら、一日缶詰で数えている自分の仕事に対する対価が空しく感じたものです。億というお札を目の前に、たった十枚という感覚はある意味、お金がものであると見てしまう時空でもありました。

やがて、算盤からオフライン、オンライン化を目指しての移行作業にて、労働基準局の目を気にしながら毎日、毎日0時近い帰宅時に一番癒されたのが、再婚していた養母のお味噌汁です。温かい味噌汁は、緊張した体にはとても沁みました。コンビニが無い時代帰宅をし、直ぐ食事が出来ることは、養母に感謝しています。手作りの食事は、人とお金というエネルギーに晒された体には、回復も早いものでした。日本の産業を支える国民の食は、大きな役目があると後に思うようになりました。つまり、「食の乱れは、色、職、蝕の乱れに」に繋がる事を痛感する時代が待っていたからです。