親や社会の保護のもと子どもが成長をしてゆく上で、特に最低限保証をされることとは何でしょう。昔、祖父母がよく、「雨露しのぐ家と温かい布団と食事があれば何により」と言っていました。これは、日本人の生活にこの言葉が当たり前のようにあり、感謝をして生きる姿を子や孫たちに見せてくれていたと思います。その背中を見せてくれたのが、祖父母でした。
その祖父母が都会の我が家に来たことが分かるのが、薪で炊かれたまだ釜のぬくもりがある俵むすびの香りでした。田舎で握って来てくれたおむすびは、夜汽車に揺られ早朝我が家に着き、そっと孫たちの枕元に置かれ薪の香りで、祖父母が来ている事がわかり私たちは目を覚まします。その香りの表現はできませんが、当時の薪の香りがするお米は何とも言えない美味しさでした。そのほんのり温かいおむすびに「あぁ、お米を食べている。」という実感は忘れません。そして、祖母からは「お天道様から頂いたのだから、お米粒は残さず、大事に食べるのよ。」と言われたものでした。一晩たっているのにご飯がほんのり温かいのと、両親の喧嘩の仲裁に祖父母が来てくれたことで、子供心に身体は緩んだものです。大人になるにつれて、日本には、おむすび一つに、味、香り、形に、なんとも言えない郷愁をそそるものと不思議に感じていました。この郷愁がお米一粒一粒に入っているのでしょう。
さて、母が去って台所に立ちましたが、まだ自動炊飯器は無くガス台にお釜を載せて炊いていましたから、火加減は日々葛藤です。祖母のあのおむすびを食べたさに、毎日炊きますがそう簡単にはゆきません。親の目のない自由な台所で、理科の実験みたいに作ってはみますが、あの味には出会えませんでした。そして、ガスが使えるようになっていたので、温かいものを作って生活をしていたのですが、何を料理し何を食べていたか、正直記憶がありません。人間とは、何をもって生きているのでしょう。
ある時、体調を崩し伯母の家に暫くお世話になることがありました。子どもが三人もいる上自営業に携わりながら、夜も寝ずに看病をしてくれたことは、後に子育ての手本となりました。そして、忙しい中作る伯母のお料理は、当時生きる楽しみになっていました。特に、店を閉めた後作って下さるお弁当は、未だに忘れません。四角いお弁当箱には、十種のものが詰められるからです。白いご飯に始まり、まずゴマ塩や海苔や昆布の佃煮のどれかがのりはじめます。黄色は勿論卵焼きです。次々詰められると、最後は従妹とみんなで顔を突き合わせて十種類あるか数えます。伯母のあの十種類入れる理由を聞いておけばよかったと、今は思う次第です。そんな和やかな食卓での経験が、成長期には恵まれていたのだと思えます。心の中で色々思い、感情の揺れ動くの中、唯一ほぐしてくれるのが食でしょう。只食べるという事ではなく、人の為に作られた食がどれだけの役割があり、人を助けているかを成人してから痛感します。現代で言えばこども食堂がその働きをしている一つなのでしょう。
この衣食住の働きを支えていたのが、多分三から四世代同居の大家族の仕組みなのではないでしょうか。父がよく戦後の一番の負は、核家族になったことをあげていました。