母は死の淵をさまよいながらも私の元に戻ってきた。私と共に居て、入院中に見舞ったときは談笑もした。何より元気な時、一緒にご飯を食べて美味しいねと笑い、たくさん私にありがとうと言っていた、「娘さんと一緒でいいね 」 と言われると笑顔で応えた。若いころは依存症などという厄介な病気のために母自身苦労して二人の子供を育ててくれたと思う。父は「お前は一円のお金もごまかすことのないまっすぐで正直な子供だ」と私を信頼していた。しかし母は私が小学校低学年の頃からギャンブル依存症となり、借金で家の中は寒々としていた。看護師として母は夜勤があり、仕事がない日はギャンブルにはまり夜遅く帰ることも多かった。夕食が用意されず夜中近くに戻った母がその手にうなぎ弁当を持っていた場面を思い出す。おいしいし悔しいし、その感情は子供の私を打ちのめすに十分だった。そんな私が健全に育つことが出来たのは父の信頼のおかげと思っているが、常に私を尊重していた父は心臓発作で急死した。59歳だった。その後も母は自由奔放に生きていたので一緒に暮らすことなどお互いに考えられなかったが、あるタイミングで偶然が重なり、私達と六人の生活が始まった。孫たちをかわいがってくれるおばあちゃんであったが奔放ぶりは変わらず、近所に、自分が漬け込んだ漬物桶をもっていって、娘に怒られるからここに置かせてなどと言うそんな行動がはずかしく思ったことだ。近所で一万円を借り、母に貸していると近所の人に言われ返しに行ったこともある。私の神経を逆なでるようなことを平気でしているようにしか私には映らなかった。高田弘子さんとの出会いがあって、瞑想を始め、私の心が徐々に変化していったことを振り返る。晩年、オイルトリートメントをしてあげた時には「天国かどこかに行ったようにきもちええなあ」と言って喜んだ。私の焼いたパンを食べては、「こんなおいしいパンどこにも売ってないなあ」などと言う。本当に楽しい時間を過ごせたと思う。
母の最期を看取った私であるが、最後の母の言葉は、私に対するねぎらいの言葉ではなく、「皆が来てくれてうれしい」と周囲の人たちに向けた言葉だった。最後まで私を認めようとしてくれなかったのかと、またデジャブのように寂しい感情があふれだす。人には笑顔で接する母親。時おり寂しさを感じたものだ。それは身近だからこそ見せなかったのか。母のプライドだろうか。私に負担をかけて申し訳ないという気持ちがそうさせたのだろうか。亡くなる前日菩薩のような顔は、私に向けた顔ではなかった・・またもや循環の輪にとらわれる自分が居た。
ふと上昇してみる。母は死の淵をさまよいながらも私の元に来てくれ、私と共に居てくれ、入院中に見舞ったときには談笑したではないか。何より、元気な時は一緒にご飯を食べて美味しいと笑い、たくさんありがとうと言って、「娘さんと一緒でいいね 」 と言われると笑顔で応えていた。母のいっぱいの愛情と楽しかったことを想い出す。精いっぱいの愛情を私に向けてくれていた。依存症などという厄介な病気のために、本当に苦労して、兄と私を育ててくれたのだ。今さらながら母に感謝の気持ちを伝えたい。
「ありがとう」いつも何度でもありがとう。幼きわたしの肩を抱く。
