私の母は色々あって75歳ころ私たち娘家族と同居した。私は二人兄妹で、それまでは、私の父が若く急死していたため母一人住まいを続け、その後長男家族と同居。長男方の都合により、思いがけず娘家族との同居が始まったというわけである。長男夫婦が落ち着きを取り戻した頃、最後の同居をぜひ、と長男が求めたことから、遠く1000キロメートルも離れた南の島への移住となった。母は90歳になっていた。寂しさはあるが快く長男夫婦の住む南の島へと送り出した。多分その島で、長男に看取られながら余生を送ることになるのだと、覚悟を決めた。それまでの15年、母は私たち娘家族を終の住まいとおもって穏やかに過ごし、私はやっと娘として本心で母と向き合い、やさしい気持ちになれた。その後、本来の形として長男家族との同居が決まり、これで良い。これがより良い選択であると心から納得して覚悟を決めて送り出したのだった。ところが、である。思い通りにはいかないもので、2年の月日が過ぎた頃、母が体調崩しドクターヘリを使って島から本土に入院、その介護のために、島と本土を船で行き来していた兄は疲労が重なったのか倒れてしまったのである。事態は急変、延髄の脳梗塞で命の危機にさらされた兄。母も危篤状態。私の大切な人が一度に二人も危篤状態に陥ったのである。しかも時はコロナが蔓延していた頃。5時間かけて新幹線で行っても15分以上の面会は許されなかった。母の主治医からは、絶対安静でとてもでないが動かせる状況になく、転院は不可能ときっぱり。しかし兄が倒れてしまった以上、誰一人知る人のないこの土地で私は途方に暮れた。私の自宅に連れて帰りたい。母の生まれ育った場所には姉妹も友人もたくさんいる。それ以外選択余地はない。そう決心して、主治医や周りの協力を得ながら1000キロメートルの道中を酸素吸入と点滴をしながら連れもどすことにした。新幹線の中に特別室をあつらえてもらい、着いた駅から民間救急車を頼み、酸素吸入しながら、移動させたのである。病院に2週間受け入れてもらった後、夏のじりじりと焦げるような暑い日、2020年8月12日、1000キロメートル離れた南の島から、ようやく我が家に戻ることが出来た。それはとてつもなく無謀な旅だったと思う。夫は母を施設に入れることを主張したが、私は頑として拒否した。介護で疲れてしまうであろう私の体を思いやっての夫の想いやりもその時の私に通用するはずもなく、夫とけんかしながら必死で我が家に連れて帰ったのだった。15年過ごした我が家に連れ戻す選択をしたのだった。
母は危機的な状況をくぐり抜け、訪問看護と往診を受けながら寝たきりではあったが穏やかな時間を過ごしていた。母の好物のスイカなど口にして、母の喜ぶ顔を観たい一心で介護した。庭には大きなユリが咲き誇った。植えたはずのないユリがぐんぐん背を伸ばし、私の背丈より大きくなって、おかえりなさい、と言っているようだった。大輪が母に見えるようにその向きを変えながら水やりをする私に、母はベッドの上から、ガラス越しに、「あ り が と う」と、口を動かした。私は嬉しくて手を振って応えた。その数日後、母は天に召された。その日も暑い夏の日だった。2020年8月28日午前4時42分。母は、まるで笑っているような穏やかな顔だった。夕方、大きな虹がかかった。白さぎが二羽、自宅の屋根から舞い上がり、まるでその旅立ちを祝福しているかのように、虹の方向へと小さくなっていく。葬儀は精神学協会のマツリヌシとして高田弘子さんとその妹、鳥羽里美さんが送りの儀式を執り行った。母の魂は羽が生えたように光の方へと去っていったと鳥羽さんが伝えてくれる。私はそんな言葉を聞きながら、寂しさと喜びと半分半分の気持ちで見送った。亡くなる前の夜、母が見せた表情はやさしい菩薩のような顔だったと思う。私にはあまり見せなかったが、高田さんが手を握り語りかけてその波動に癒されたかのように、息を引き取る直前なのに穏やかな笑みさえ見せてくれていた。私ではなく高田さんへの笑みにつらくもあったが、それが本来の母の暖かな顔だったと今は思える。私には娘に対する生きてきた過程でのプライドもあったのだろうか。それを外して生きている間にもっと話せたらよかったと思う。この時を最後のときとは思わず、今も見守ってくれていることを感じている。
