台所から宇宙へ25

夏の暑さが少し落ち着き始めた頃に蒔いた葉物の種が二葉を出して、今年は少ない秋雨でも成長をしてくれています。天からの水は、高い所からの落下により圧がかかり、それにより水やりの水とは違う、めざましい成長を作物は見せてくれます。人間も同じく苦労と言う圧がかかると、めざましい成長をするのと同じで、この圧というのはエネルギーの中でも大切な要素のようです。

「子どもは神様からの預かりもの」

では、どのように取り扱いをさせて頂いたらよいのでしょう。我が子の子育てを振り返り思いかえしますと、父子家庭の環境から嫁いだ時に開口一番言われたのは、躾ができてないとのことでしたので、結婚後の同居により両親に助けてもらいながらすすみました。小さい時から生きる指針は、幼稚園や学校のキリスト教に始まり、実家の黒住教、嫁ぎ先の信人は金光教で葬式は日蓮宗という、巷でいう宗教の言っている標語は、家のいたるところに色紙やカレンダー、お札により御言葉の文字が目に入るようになっていました。その文や言葉が指針で、時あるごとに意味を調べては、自分なりに判断をして生きていました。子どもができてからは、お礼参りという事と母の机にある額の「人あっての神、神あっての人」などの言葉の意味を知りたく、一時は姑に付いて教会へ足を運んだこともありました。また、姑からこの信心を嫁にも継いでもらい三代の信心を希望されました。希望されればされる程、信心は個人の自由とばかりに、心の中で反発をしたものでした。それでも、両親の孫に対する生活の決まり事や躾という事には、片親で育っているというハンディから何故か腑に落ちることもあり、見習ったものでした。しかし、内容によっては戦後の時代の流れにそぐわないケースもでき、よく姑とも討論みたいな事をしたものでした。でも、躾と言うのは時代的には、基本は変わらず道理があるという事です。

例ば姿勢について、今はスマホ姿勢と言って前かがみの猫背になりやすい姿勢が、子どもさんから大人まで見受けられますが、本来は背筋を伸ばし頭蓋骨から腰まで筋を通す姿勢でいることを、子どもの頃祖母によく言われたものでした。近年、和室が少ない文化住宅では正座をすることが無くなり、一部の武道や茶道の世界で少年倶楽部が体験するくらいでしょう。では何故姿勢が重要なのでしょう。よく自然界の大木を見ると根から幹や枝の凛とした立ち姿はとても美しいものです。そして、とても安心感のある包容力のある力を醸し出しています。それと同じで体も体幹がしっかりしていると、臓器や循環器は健康であり、そのことにより正しい思考ができやすくなると考えます。何故なら、茶室などで身を整え正座をしますと、自然と頭の先から天井へ引っ張られる感覚になり、何か心がスーっとなります。その状態でいると荒々しい事柄は、消えるようになりませんでしょうか。昔はどこの家でも、姿勢の指導者として祖父母がいました。小さな三つ子にならない子どもが綺麗に正座をしていると、おばあさんが「あら、綺麗におちゃんこをしているのね。」とほめる役目の人がいました。そして、生活の中でその綺麗な姿勢姿を見せていたのは、火鉢の傍に凛と座る祖父や縫物をする祖母であったと記憶します。小学生の頃、何時も着物姿で髪を一つに結い正座をしていた祖母を思い出すと、八十を過ぎても凛としており、格好良いと思っていました。

ここまでは一つの例として挙げましたが、姿勢に始まり所作、敬語、ことばの使い方により、人との接し方が身に付き更に人生での思考範囲が拡大をしていくと考えます。その上で、「神様からの預かりものとして」なら、それに関わる大人の態度、姿勢が問われることになるでしょう。今思えば我が子達の時に、この躾の重要性を認識していたら、もっと違った形で子どもたちに接していたのにと反省です。それは、躾は必要と知っていましたが、片親で育ち未熟視された自分の心から出た、力で教える行動へとなり、子ども曰く何故そのしぐさに叱られたのか理解できなかったことを聞き、更に反省然りです。そして、子ども達を見ていると、躾事態を思考せずに時代の流れに沿うように生きることを良しとして、結婚をして子供ができ、親を半面教師みたいに子どもへ接していることへ、更に後悔をしながら生活をしています。このままではよくない事は確かです。

近年は、物資的に豊かになり生活基準が情報や生活様式に目が行き、自分的思考が多くなりがちです。先日も道路での逆走が多くなっているのは、自分の理解が正しいと決定付け猛進する結果が逆走に現れるという情報に触れました。先ほどの姿勢に当てはめてみると、歪んだ姿勢で思考を積み重ねてゆくと、歪んだデータの蓄積により、やがて引き出しを開けてもそれをもとに思考しますから一方方向の回答になり他責思考になりやすいのではと考えます。では、背筋の通った体で思考をすると左右のふり幅があり思考範囲が広く、最後は筋の通った所のデータに落ち着きその蓄積になり、引き出しを明けても瞬時に判断が出来るように培われている為、自責思考が出来るのではないでしょうか。

さて、預かりものは誰しも丁寧に壊さないように取り扱います。その預かりものは子どもです。更に神様からです。丁寧に、壊さないようにとは。小さければ小さい程丁寧にとは、子どもだからではなく、諭さなくても小さい程素直に吸収します。ですから、お手本を示すことで真似っこをします。真似っことは、親の姿勢や態度、仕草です。その親の姿勢や仕草を丁寧に行えば、必然的に真似ると思います。更に、諭すとは片言でも会話ができ始めると、言葉が重要になると思います。(勿論胎教からの夫婦の会話や言葉かけも重要度は高いです。)言葉の選び方により脳の使い方に影響をすることでしょう。やがて、悟ための言葉選びに移行するでしょう。今更このような事を記述していますが、自身が言葉選びを真剣にしていたかと言うとこれも反省然りです。どれだけ子供へ言葉の暴力をふるったことでしょう。勿論、心が壊れて何度とどの子も泣いたことでしょう。自身も時には泣きました。しかし、よくぞ育ってくれましたと思う今日この頃です。「育児」は「育自」とつくづく思います。これを前提で、神様から親としての教科書を預かったと考えるのが妥当と思います。躾とは、身を美しくと書きますが、まさに自分自身の姿が子どもに映し出されます。よく「子どもを見れば、親がわかる」とは、まさにそれでしょう。