台所から宇宙へ25

実りの秋となり食卓の上には、豊かな食材が並び毎日が幸せな日々が続いております。栗に柿やなつめ、かぼちゃに里芋、さつま芋に落花生などなど収穫を楽しむ中、類が類を呼ぶではないですが、内海の秋鱧まで届きます。山の幸に海の幸と幸せな限りです。そして、秋と言えば秋祭りです。稲刈りがほぼ終わると畦の草刈りに始まり、お祭りに向け神社の掃除や木々の手入れ、更には各家の庭の手入れが始まります。農村が高齢化したとは言え、まだここの地域では草刈りが行き届き、棚田の景色が夕日に映え、更に夕日をバックに山の寝床へ帰るカラスの姿に自然界の絵を見せてもらっています。

さて、「子どもは神様からの預かりもの」という事で、この国では妊娠五ヶ月の安定期に入ると岩田帯を巻き丈夫な子どもを無事出産できますようにと祝います。そしてこの世に生まれ出ますと一ヶ月目のお宮参りに始まり、百日祝いや七五三へと続きます。この国では節目節目に必ず神社へ行き、親子で神様に報告と感謝を捧げに行きます。

今の神社と言うのは、平安期の頃から整えられたという記録が残っていますが、更に遡る事磐座や神籬信仰による時代には、自然の全てからの恵みとされいたるところに祭られた形のものが存在しています。つまり、自然も人も全て出どころは一緒であり崇敬の念を持ち生きていました。決して自分たちが造ったという概念はありません。例えば、今でこそ女の子が欲しいとか男の子が欲しいと言ったりしますが、生み出でるというのは生と死が背中合わせであり、そこには我と言うものは本来存在しないと考えます。やはり、授かりものという所に行きつく文化の国です。

また、秋祭りの神社は何のためにあるのでしょう。昔は、稲の収穫が終わると籾を高床式の神殿に納め、感謝のお祭りをして春の籾蒔きまで保存されていました。春になると、その籾をお下がりしていただき田植えの運びとなります。やはり、この国では授かりものとしてすべてを扱い、営みをしていました。 子どもも種も生きていく上でのものは授かりものとなります。ですからそこには、自分が作ったという我は存在しないという事になりませんでしょうか。