台風10号サンサンの発生により、ここ数日は雷雨の日々です。お陰で田の稲は暑さをしのぎ、刈り入れに向けて益々元気になっています。ただ、刈り入れ前の大風に、稲に被害が出ない事を祈るばかりです。
さて、テーマは墓仕舞いの続きです。
現代、団塊世代以上の方の人生の終着点は、「お墓」へという流れがまだあるようですが、物に執着を持たない若い世代は「お墓」に重きを置いていなようです。その傾向として、運転免許も余り取りに行く若者は少ないようで、田舎のように必要に迫られた地域になりつつあるようです。また、ファッションも服においては、着回し上手に数を持たずに生活が成り立っているようです。生活スタイルがシンプルになりつつある傾向をみて、少し昔のスタイルに戻りつつあるのではとも思います。
シンプルな生活スタイルと言えば、柳行李という編みカゴ生活を思い出します。よく時代劇の旅人の肩に掛けている、携帯用の旅行カゴがその一つです。行李とは柳や竹で編んだ箱型の入れ物ですが、今から五十年くらい前の嫁いだ頃は、まだどの家にも一つ位は押し入れに有ったと思います。それは、戦後物がない時にはこの柳行李に着物を入れ嫁ぎ、タンス代わりになっていたと聞きます。また、移動にも便利な道具であったという事です。当時、知人のお母さまが、老後に息子の所へ同居するにあたり柳行李一つに、合わせと一重の着物、割烹前掛けと肌着を其々数枚入れ、後は俳句用の硯箱と和紙、愛読書を一冊詰めて、息子の家へ行ったことが思い出されます。その後は、息子宅の生活で俳句を楽しまれ、静かに生活をしながら終わられたとハガキをいただきました。このスタイルを見ても遺品整理はさぞシンプルだったことでしょう。
今、巷では断捨離が流行っていますが、この流れは物の少ないシンプルな生活をする先に、見えてくるものがあると考えます。息子の所へ行ったお母さまは、俳句と言う文化に沿って生活をしていた事が伺えます。実は、姑も実母もこの俳句を作っていた形跡が、遺品整理のとき分かりました。この俳句文化の中で、日本人は自然と向き合う、自分と向き合うという事を静かにしていたのでしょう。遺品ノートをめくってみると、その向き合う先には、「なぜ生まれ、何の為に生きるか」という事柄へある意味重きをおく日本人の特性の存続があるように見えます。産業革命後、時代が進み物質文明に人間の意識は集中をしましたが、しかし日本人の根底には精神文化の種が脈々と残っていると思います。昔からヒト、事、物という言葉があるように、物は見える世界で、事柄やヒトの意識は見えない世界です。その両方をバランスよく営んでいたのがこの国ではないでしょうか。そのバランスを養ってくれていたのが、この国にある豊かな自然であると考えます。
では、自身が何故お墓はいらないと思考をしたのか振り返ってみます。それは、幼少期の両親の離婚による色々な感情を作った事。更には成長期にもっと感情を増大させ、自らの負の意識に耐えかねて消滅を望んだことにあります。よく「骨身に染みる」と言う言葉がありますが、負の思考のスパイラルに入るとそのエネルギー自体を消したいと思う先に、この身の物質的なものをも全て消したいと思うものでした。骨も焼き切って、一切痕跡を残さずこの地上から去りたいという思いです。それは、この負のネルギーが沁みこんだ骨は、幼少期に親しんだ木や土壌を汚すという考えにも発展したものです。勿論この理由だけではなく、あの大きな石の下敷きになる事が、本能的にも違和感があることも含まれます。
もう一つは、医療機関へ勤めていた時、末期の方の意識が子供へ移るという事を学びました。人の思いと言うのは非常に強いもので、特に亡くなるときには納得のいかない人生に対して、その思いを子どもなどに移して終わる世界があることを知りました。これはマイナスのエネルギーを宿したものですから、その方が終わられても影響は大きく厄介です。またある時は、有名陶芸作家さんが無くなったという知らせと共に、電話の傍にあったその方の作品が自らヒビが入り壊れた体験でした。目には見えませんが、エネルギーの移し替えや移動をするという事の体験でした。これが後に、あの世とこの世が重なり合いだしたという情報へと繋がり出しました。お墓に入れられても、自ら作った意識は持ち物にも宿って残ります。ですから、せめて、自分で作った負の意識と代々この身に繋がる負のエネルギーだけは、物心共に次へ残したくないという気持ちになりました。このヒトの意識が生活圏の中で大部分を占めていますので、この掃除と言いますか負の意識を一切残さないというのが人として存在している意味でも、生きる姿勢とも考えます。今だけ、金だけ、自分だけの生活圏に、その人の意識が人から人へ、また持ち物へとの世界がある事をもっと実感できたなら、「死」と言う事への思考も大きく変化することでしょう。
さて、墓仕舞いを行った直後、親戚の来訪があり、今までなら墓仕舞いの事を口にすれば大反対の言葉を発していたのですが、今回は気象状況による山の墓地状況の説明や精神的な話にも、静かに感慨深げに耳を傾けていました。最近では、俳句をたしなむ連れ添いの影響もあったかもしれません。それは、その親戚が住む街化している田舎の中で、現実に墓地の山が崩れかけていることもあったようです。子供からは今後のお墓の在り方を課題に出されていたようです。今回耳を傾けた大きな要因は、墓仕舞いが家族全員の合意のもとであるという事と、特に次世代の意向が強いことであったようです。親戚関係はお墓と言うもので、就職や結婚など世の中の流れが一つの標準として動いていましたが、これからはたましい的生き物であるという自覚と更に今までの生きた精神的掃除又は浄化が必然的になる時代に入ったと実感しました。それは、その思考の入り口が「お墓」という事になったと言えます。
どうぞ台風の被害が少なくて済むことを、お祈りいたします。