台所から宇宙へ19

巷では帰省ラッシュも終わり、田舎の緑の田んぼには黄色の稲穂が顔を出し始めました。それは日に日に黄色の色が増し、穂も頭を擡げだしました。そして、棚田の上の方の墓地は、草刈りが綺麗にされており、暫くは見晴らしよく保たれています。このお盆やお彼岸になると、墓地清掃は何時まで保たれているだろうかと思います。そんな晩夏の中、以前から考えていた墓仕舞いの機会が得れました。

嫁いだころ、政令都市のほぼ中心に位置する山の上に、嫁ぎ先一族のお墓はありました。当時、初めて墓参しこの土地の下に行く末は入るのだと目にしたとき、余りにも実感が無いことに戸惑いました。やがて、墓参をするたびに、土砂防止や隣との区画整理などが進み、暫くは時代の流れと並行して墓参も賑わっていました。それでもこの土地に自身が入るイメージが出来ずにいた時、2006年ネット上でアース・トラスト「お墓を残すぐらいなら、森を残したい。」というホームページに出会い、救われた気がしていました。直感的にお墓に入りたくない気持ちは、一段落しました。

やがて、両親もお迎えが迫ってきたころ心の整理をした義父の口から「戦友には墓は無くこの国土にさえ帰ってないのに自分だけ墓に入るのは、とても心苦しい。そこで、わしは墓はいらない。」という言葉が出ました。当時、墓石を作るために自然界を壊し、墓石を据え付けるにも山を崩す事が、メディアに取り上げられるようになった事もあり、次第に世間も考えさせられる時期でありました。やがて、知人の散骨に参加したことにより、「わしも散骨がいいな。」となり、それに続いて義母から「私も正直のところ前夫が南方で終ってお骨も帰ってないのだから、主人と同じに散骨を希望します。」と言われました。義母の心を代弁すれば、海の散骨なら前夫の近くに行けれると思ったことでしょう。それは、亡くなる数年前に親子四人で沖縄に行った時、シナ海の方に向かい夕日を見ていた両親の後姿が、その証拠のように思えます。

そして、沖縄の帰路空から郷里の山並みに並ぶソーラーパネルの景色を見て、両親共に口を揃えて「まるで龍の鱗みたいだけど、墓石とはまた違う墓みたいだな。」と言った言葉が、印象的でした。両親が亡くなった後は、線状降水帯という気象状況により、各地で山崩れが頻発し出しました。それに伴い墓地のある山も漏れずに、徐々に小さな山崩れが始まっていました。区画整備されたコンクリートの墓地は、側溝に落ち葉が詰まり水の排水が間に合わず、別の水路が山肌へ登場し、徐々に崩れはじめています。ある時、墓地の地形を調べる機会があり、航空写真を見ましたら、墓地の山頂には知らない間にソーラーパネルが並んでいました。これは、パネルが設置されたことにより、地中の電磁場の変化がかなり起きているとみます。その証として、素人の人間でも山肌がカサカサとしており、歩いていても体に違和感のあるものを最近では感じます。

さて、たった一軒の墓仕舞いができたとしても、山の地形にとっては針穴程度のことでしょう。しかし、誰かが始めて一人一人の意識が変わり、やがて墓仕舞いのレベルでなく、山や自然の事を考える事が急務となりだしています。この国では、神様の宿る国として当たりまえです。山にも神様は存在します。その証拠に、山神とか山の神という地名や立て札が地方にはまだあります。このまま沢山の人が向き合わなければ、昔の言葉にある「罰があたる。」ということがやがて起きると考えます。それは、歴史を見ると必ず人の世の堕落時期に、災害という形でおきているからです。天災ならず人災と。