人生の中での出会い 4

諺に、「若い時の苦労は買ってでもせよ。」という言葉があります。この苦労は自分から引き寄せるものと、既に設定されていることもあるのではないでしょうか。

それは、高度成長の登り坂の象徴とされる第18回東京オリンピックに向けて賑うさなか、お使いの帰りに交通事故にあいました。経済の成長と共に家の様子も変わり、テレビ、洗濯機、冷蔵庫の登場と共に、両親の生活も変わり始めていた時でした。自営業も日曜休みが出来て、物作りの好きな父は手製のサーフボードや釣竿で、海へ出かけることが多くなりました。母との時間も増え、留守番の私たちと外食が多くなりました。その結果、釣られた魚は夫婦喧嘩の種になりだしていました。やがて、父の外出が増え、時には浮気の疑惑をかけられた末やくざさんの来訪もありました。母は気丈な人にて「お宅の管理不行き届きで、女の子が居ないのでしょ。この家には関係がないので、お帰り下さい」という事件も発生。やがて、両親の不仲がピークになった頃、私は交通事故を体験。夫婦喧嘩の末、お使いに行かされたという怒りの感情は、雨降りの中体が車に飛ばされたことで、中断となりました。一晩意識の無い状態で、翌朝回復したことで暫くは夫婦仲も一次停戦だったようです。入院中、大学病院の検査では頭の異常もなく、むしろIQも良いので「勉強に励みなさい。」と言われ、薬の大袋を持たされ帰った事は意味が分かりませんでした。やがて、子どもに異常が見られないことが分かった頃から、事故の起因の責任所在で、夫婦喧嘩は再開していたらしく、やがて日本が金メダルを獲得して賑わった日、母は去ってゆきました。

人生の中で、特に親の保護期間に子供ではどうすることもできない事に関しては、設定された苦労ではないでしょうか。そして、自分の感情に翻弄され、対策知識が得れない間は自分で引き込む苦労というのかもしれません。事故以来途切れていた怒りの感情は、母との離別によりやがて世界の事情とも重なり復活し増幅してゆきました。それが、ベトナム戦争です。テレビの画像による悲惨な光景。特に子供の凄惨な画像は、自分の中の怒りの増幅材へ簡単になりました。身体が元気なうちは、この怒りとも共存できます。しかし、母のいなくなったことで、たちまち台所に立つのは自分となり、職人肌の父からは見て習うという手法で、ご飯の火加減から始まりました。ガスの火を見つめながら、怒りに始まり「何故?」「何故?」から、知らず知らずに淋しさに変わり、滲んで見える炎の世界には熱さも感じないものでした。体の存在感は薄くなり、意識が溢れている空間というのでしょうか、怒りという事すらも考えさせない空間を知りました。ですが、ご飯を食べて寝て起きれば、また事あるごとに怒りは復活をします。そして、それがエネルギー源で動けるものでもありました。

その初めての谷底に近い時期に、怒りとは別の世界に出会えたのが音楽です。同じ年代のウイーン少年合唱団との交流や、第九シンフォニー、ハレルヤなどのクラッシックから音の世界を知りました。同じ年代の少年の美しい声には、「こんなに純粋な音の世界がある」事に感動を覚え、自分もこんな綺麗な音の出せる人間になりたいと思ったものです。また、新学年を迎えた時、隣の席の級友にヴァイオリンを進められ、楽器も彼女の使わなくなったものを譲り受け、音楽の世界に連れていってもらいました。それからは、ヴァイオリンを弾くことで苦しい感情の世界から逃避出来ることを知り、没頭しました。この級友の誘いからオーケストラの部活に入り、後にカラヤン氏に出会えたのでした。

今でこそ苦労だった思える事は、成長期の真っただ中では、体の成長に伴い生きる力と翻弄される感情の起伏との拮抗で辛いものでありました。得るものもあれば、失うものもある事の学びが、やがて成人して歩む道の道標になる事に気づけた時、苦労の価値が分かるのかも知れません。机上よりも実態あるものから見えない空間を通しての出会いまで、当時時間は長く感じたものでした。