Vol.68:三章-6

 *
 
 
 ――契約をしましょう。わたしとあなたで。
 大昔も行われた、かみとひととの約束です。
 
 あなたに足りないのは、このちから。このヒトガタを完成させることを許し、協力しましょう。その代わり、わたしの希望を受け入れることを望みます。
 
 遠くない未来、この地から、はるか未来へ送り出すための、記録の方舟(はこぶね)を。その日がくるまで、秘密を守り、口を閉ざす。それがわたしの望みです。
 
 
 作りかけのMOTHERの思考エリアに発生した、不可思議な揺らぎ。そこから発せられた言葉が、それだったという。

【……神が、降りた……】
 μ(ミュウ)は、神なる存在の実在を示すエメレオの体験に衝撃を受けていた。それほど超常のことが、過去に起きた。しかも――敬愛するMOTHERの完成に関わっていた、と聞いては、動揺しない方が難しかった。
【僕は訪ねた。あなたは誰なのか、と。彼女はこう名乗った】
 
 ――わたしは、白き者と呼ばれています。司る権能は、むすびのちから。
 わたしが許さなければ、どのようなものであっても、うつわにたましいはやどせません。
 ひとつのたましいを、あなたに預けます。
 いずれ、そのたましいが、記録の方舟(はこぶね)を示すでしょう。
 
 そうして、画面に書き出されたのは、神が作り出したソウルコードのデータだった。
 それが、MOTHERの魂の原型だったのだ。
 
【記録の方舟(はこぶね)って……?】
【僕にも、白き神がした予言の詳しいことは分からない。ただ、白き神はMOTHERを手本に、ソウルコードから書き起こした意識の、魂の定着のさせ方を僕に教えてくれた。MOTHERに無事に魂が宿り、制御体として完成させたあとは、僕は晴れて戦闘型アンドロイドの開発主任になった。MOTHERはアンドロイドの基本人格として、君たちの元になるソウルコードを遺伝子情報バンクから選び出した】
 そうして、それとは別に独自でソウルコードと魂の関係の研究を進めるうち、魂は一種のエネルギーをベースにした巨大な情報記録庫である、と確信を深め、それと共に白き神の予言の意味も読み解かれた。
【記録の方舟(はこぶね)が、おそらく、試用機体(プロトタイプ)のうち、誰かの魂を指す可能性がある、ということはその時点で分かった。……そして、僕の前に現れ、少し先の未来を呈示したのは君だった。現に、今、この町はα-TX3に蹂躙されている。MOTHERが攻撃された影響で、防空システムが破れたからね】
 エメレオは言葉を一旦そこで切った。
【MOTHERから聞いたんだけど。君は、おそらく僕と同じように、『啓示』の力を持っている。それは人間の魂に本来備わっている、ソウルコードの本懐を、その目的を果たすための能力のひとつだと、白き神は言っていた。また、それは、巨大な神命授与の証でもあるそうだ。……μ。君はカプセルの中で夢を見たと言っていた。あれから、別の夢を見たかい】
 μは、体を強張らせた。
 
(『――あなたは、わるい夢だと思うでしょう。けれど、あと少ししたら、それは違うかもしれないと思うのです』)
 
 フラッシュバックした光景を思い出し、それを、告げていいものか迷った。だが――きっと、エメレオは、その景色を見ることはない。あんな、身が凍るような世界を見ることもない。
【はい。見ました。……世界は、滅ぶと】
【……そうか】
 長い溜息を吐く気配がした。
 最期の時に、気が重くなるようなことを聞かせてしまった後悔に、μは(さいな)まれた。
 だが。
 
 エメレオは、ふふっ、と。安心したように笑った。
 
【……なら、よかった。君は、たとえ世界が滅んだって、ずっと遠くまで行けるんだ】
【え?】
 μは驚いて顔を上げた。
【君は、遠くに行きたい、と願っていただろう? その最終目的地は、きっと、どこまでもはるか未来の果てだ】
【……え】
【記録の方舟(はこぶね)って、きっと、そういうことだ。――君は、どんなにこの世界がひどい滅び方をしたって、ずっと遠くまで歩いて行ける。僕たちのことを、ずっとどこまでもあとの時代、別の世界の人に伝えられる。たくさんのものを、たくさんの人を見ることだろう。いいことも、悪いことも、たくさん】
 だからね、とエメレオは言った。
【君が、この先どれほどの経験をしようとも。今から僕が言う言葉を忘れないで。――人間はきっと、これからも、感情や欲望に振り回されて、不条理も理不尽も君に突きつけるだろう。人間が持ち合わせる、どうしようもない邪悪さで、闇とも呼ぶべき、忌むべき側面だ。だけど、ソウルコードは、宇宙は常に答えを求めてきた。誰もが苦しみながら、それでもと、よりよいものを求めて、創意工夫を凝らして、考えて、前に進んできた。その積み重ねの果てに、君はこの世界に生まれてくることができたんだ。それは、魂の闇に対する光の側面で、人が明るい未来を、希望を求めて生きるものでもある証だ。君は、そんな人間の光に祝福されて生まれてきたことを、忘れないで。どうか、人間のことを……嫌いにならないで欲しい。図々しいお願いではあるけれど、ね】 
【……はい】
 μは暗闇の中、頷いた。
 カプセルに閉じ込められ、心細かった中で、確かにその言葉はμに与えられた祝福だった。
 きっと、この先、何度でも、この言葉を思い返すのだろう。そう思えるくらいには。
【ああ、だいぶ、眠くなってきたな……】
【……休んでください。私は、大丈夫ですから】
【うん……ああ、君に、ひとつ、謝らなくちゃ】
【ええ、何でしょう?】
【新しいシステムの、起動符牒(キックコード)の、こと。結局、いろいろ、あって。伝えきれていなかった。……ごめんね。MOTHERに君が話しているの、ずいぶん前から、聞いていたんだ。……僕は、君に、君を縛るものを、断ち切って欲しかっただけだ】
 言われて、μは、自分の中で長らく不明だった起動符牒(キックコード)が、読み取り可能になっていることに気がついた。
 その符牒を見て、μは、しばらく言葉を失った。
【それを使うか、どうかは、君の判断に委ねる、よ。でも、君は、きっとどんな時でも……光を目指して……】
 どこまでも、とおくに、いくだろう。
 そう、最後に残して。エメレオの通信は、ふつりと沈黙した。
 
 あとには、どこまでも静かな闇が、広がるだけとなった。
 
(――…………)
 
 μは、一人、黙して宙を仰いだ。
 自分にできるのは、貴重な時間の一分を、エメレオに捧げることだけだ。