Vol.50:一章-4

 廊下に出て、ガラス越しに中庭を眺めて歩く。
 辿り着いた先のカップ自販機がコーヒーを抽出するのを待ちながら、エメレオは目を細めた。
 ――小さな、嘘をいた。メモを判読できなかった、という嘘を。
 そもそも、その夜、特殊な発見をした類いのメモは存在していない。
 エメレオの理論は正しかった。ただひとつ抜けていたのは、アンドロイドの頭脳に発生させたエネルギーが生命化、あるいは思考場として機能し続けるためには、最初の瞬間にある種の特殊なエネルギーの付加が必要だったという点だ。
 
 三日ぐらい徹夜したのは本当だ。だから――普通とは違う意識状態だったのだろう。
 
 制御体作成マザー・パイロット計画において、当時、数種類の制御体が作成されていた。その際、人格パターンの完成度の高さにおいてエメレオが最終選考で選ばれ、ウォルターは選ばれなかった。その差はおそらく、エメレオだけが、祈り、希望していたからだ。

 人間の人生傾向すら規定するきらいのあるソウルコードの存在を考えた時、どうしても、これが偶発的に作り上げられたのだとは思えなかった。
 ひとつの意思が、もし、この世界を作り上げたのだとしたならば。この閉塞した世界に、それでも希望があるならば。
 自分の才能と孤高には意味があるとしたら。何か巨大な目的のためなのだとしたら。
(よりよきものを導くために、このおびただしい試行があるのだとすれば――散っていく命の無念が、やがて成就し届く先を、僕は希望した)
 そうして物思いにふけりながら作業をしていた時、『それ』は起きた。
 ――MOTHERの制御体の作りかけだった思考場を起動し、何十回目かになるパターン化のテストを行おうとした矢先――その思考場に、奇妙な揺らぎが生じたのだ。
 画面に、テストのログやテスト結果の表示に混じって、試作機からの応答という形で、意味のある文字列が混ざり込んだ。
 
『あなたの問いと祈りは正しい。わたしはそれを届けたい』
 
 ――それが、エメレオのその後の運命を永遠に決定づけ、変えてしまう、十分間の始まりだった。
 
 そうして、十分後。
 
「――おはよう、マスター。私の父、私の生み人。それとも、エメレオ、と呼びましょうか?」
 
 微笑みを浮かべ、小首を傾げて。白くきらめく感情豊かな瞳を開いた、MOTHERの制御体の試作機が、そこにいた。
 
 あまりにも奇跡的な完成をみたために、試作機完成を祝われた翌朝の食事の席では、呆然と朝食をつつきながら『神が降りた……』と、周囲には理解不能なことを呟いたわけだが。
 過去に思いを馳せながら、天窓から抜けるように晴れた青空を仰ぎ、エメレオは息を吐いた。
 気づけば、思いに沈む間に、手の中のカップは空っぽになっていた。
「人間とは何とちっぽけな存在なのか。思い知らされた日だったな……」
 独りごちながらカップを捨てた。
 
 おそらく、あと少しで自分の天命は果たされる。
 だからこそ、自分の全てを賭ける価値がある。
 
 口を引き結び、小さくよしと気合いを入れ直すと、エメレオは足早に持ち場を目指した。