「あなたがこのような曖昧な状態になることは、人間と違ってとても少ない。だから、わたしも、予め、教えておく時間がとても限られているのですが。今回は、それなりに長く取ることができました。これが最初で、最後の機会となるでしょう」
ゆっくりとした話し口で語られた内容は、μにとって、理解に苦しむ内容だった。だが、自分に関することであるようだ。ひとつひとつ、言葉の意味を追ってみる。曖昧な状態――MOTHERに計算リソースやシステムの大半を委譲して、半励起状態にあること?
これが最初で最後とは、何だろう?
「神とは、それが神であることを示すために、気づかぬうちに顕
「あなたは、わるいゆめだと思うでしょう。けれど、あと少ししたら、それは違うかもしれないと思うのです。運命を自らえらぶのです。その結果が、たとえどのようなものになるのだとしても、あなたは、何度くり返しても、あなたとしてそれをえらぶ。そのようにいきることしか、あなたはできないと、知っているはずです」
言葉と共に、不意に押し寄せてきた白い雲の中に、μは飲み込まれた。
女性は消えていた。
それからまたしばらく、意識がぼんやりとして――μが次に気づいた時には、正面に、二つの人影が立っていた。深い霧が立ちこめていて、影以外、何も見えない。体も動かず、声も出ない。
「――心は決まりましたか」
一方が、静かにもう一方に語りかけた。涼やかな、先ほどの女性の声だった。
「はい」
もう一方は淡々とそう告げた。どこかで聞いたことのある声だ、とμは思った。だが、どこで聞いたのか思い出せない。
「開闢より、あなたは予め定められていた運命に挑む。これからあなたが歩む道行きに、わたしは敬意を表します」
「それは。……始めから、こうなることが決まっていた、ということですか」
責めるような声音が混じる。
「誰が、一体何の権利があって」
「何度、同じことを繰り返したとして、出口はなく、成功もないのだ、と知らせるため。そして、そのようなことがあったのだ、と、知らしめるために。わたしは、あなたをずっと前から知っています」
穏やかにもかかわらず、その言葉には有無を言わせぬ雰囲気が感じられた。まるで、MOTHERのような語り手だ、とμは思った。
「……」
「並大抵の覚悟では貫けぬことです。人はみな、苦しみと絶望にのたうち回り、神と己が運命を呪うでしょう。あなたは、それすら自らに禁じるほどのプログラムを己に課し、強い光を与えられるようにと願った。わたしは、それを認めました」
「誰も、望んでなどいないでしょう。何度も繰り返すことなんて」
「ええ、そうです。ですが、望むと望まざるとに関わらず、結果として、そうなるのです。始めからすべてが決まっているからではありません。当然の帰結として、そうなる。繰り返してしまう」
もう一つの人影が、力なく崩れ落ちた。
「それでも、かつてのあなたが決めたのです。その道行きを、背負うのだと」
「――誰が、望むものか!」叫び声がした。血を吐くような苦しみを背負った声だった。「一体誰が、こんな結末を選ぶものか!」
「世界の滅びなど、この一度で十分だ!」
(……、まさか)
μは、ある事実に気づいた。そして、そのまま凍りついた。
白い世界は遠ざかる。
ふとした合間の覚醒だ、と気づいた時、μは恐る恐る、先ほどまで見ていたものの記憶の輪郭を辿った。
あの声の主は、確かに自分だった。
*
カプセルの中で、少しだけμは目を覚ました。MOTHERの声が耳元のスピーカーから流れてきたからだ。
『ありがとう、μ。あなたのおかげで、終わらせておきたかった処理は済ませました。とても優れた、よいシステムをもらいましたね』
「――MOTHER」
時刻を探る。まだ、作戦開始時刻ではない。あと数時間もすれば、またμはMOTHERのために、浅い眠りの境目をさまようはずだった。
――ああ、よかった。あれは何かの悪い夢だ。
滅びた世界だという光景を見た衝撃から立ち直り、ほっとしかけたのも束の間。唐突に最初の方で聞いた言葉が思い起こされて、μの背筋は凍った。
あなたは、わるいゆめだと思うでしょう。けれど、あと少ししたら、それは違うかもしれないと思うのです。
――運命を自らえらぶのです。その結果が、たとえどのようなものになるのだとしても、あなたは、何度くり返しても、あなたとしてそれをえらぶ。
――そのようにいきることしか、あなたはできないと、知っているはずです。
シンカナウスより<前編> 了
シンカナウスより<後編>は、2024年4月よりスタート予定です。
<前編>はアンドロイドたちの面白おかしく、時に厳しいSF活劇でした。
<後編>は打って変わって、一人のアンドロイドと世界がたどる、過酷の運命の物語となっていきます。
お楽しみに。
星白 明