Vol.43:不吉

 システムの大半をMOTHERに割譲かつじょうしていると、時間の感覚が薄くなる。ぼんやりとした――人間で言うなら、寝ぼけたような状態の中、μミュウはうつらうつらとしながら、不思議な光景を眺めていた。
 最初は、どこともつかぬ、白い世界だった。霧なのかもやなのかも分からないものに視界を遮られている。そんな場所に、一人で立っていた。
(――ここはどこだろう)
 ぼんやりとそう考えて、μは歩き出した。

 歩いていると、霧の中からやがて現れてきたのは、瓦礫ばかりが積み上がった都市の跡だった。大変な災禍が通り過ぎたあとらしく、燃え焦げたような黒い跡がいくつもあちこちに残っている。その上、いたるところが泥だらけになっていた。水の跡だ。どれくらい深かったのか、少なくとも、瓦礫の山の上まで被ったらしい。水の深さが十メートル以上あったことは確実だろう。
 ふと立ち止まって、μはとあるすすけた瓦礫の跡を見つめた。人型をしていた。誰かがここにいた。影だけが、それを証明するように焼き付いていた。あるいは、超高温で真っ白に周りだけ焼けて、黒ずんだところだけが低温の跡として残った。そんな風にも見えた。
(――しかも、瓦礫の種類がてんでばらばらに見える……まるで、巨大な竜巻のようなものがすべてなぎ倒して、かき混ぜていったあとのような……)
 少し小高くなっていた、高層ビルが崩れたらしい丘の上に立ってみる。見渡す限りの破壊の跡。すべてが暴威の嵐によって均質に混ざってしまったような、最初の印象が変わることはない。
 やや奥の方には海が見えた。白い砂浜があるかと思いきや、黒いゴミがたくさん流れ着いて埋め尽くされている。わずかにゴミの間から見える海は赤く濁っていた。鉄錆の匂いがする。それから、腐敗臭。
(……ゴミ…………?)
 目をすがめた。
 ――、違った。ゴミなどではなかった。
 砂浜を、海を埋め尽くすのは、焼け焦げた無数の遺骸。海水を染め上げているのは、そこから流れ出た大量の血潮だった。
 慄然とした。
「何だ、この景色は」
 ぽつりと声がこぼれ落ちた。
 雨が降ってきた。
 気づけば、μは海に向かって勢いよく走り出していた。地を蹴った。空を舞った。高さを稼げば、白い霧だと思っていたものは、すべて雲のように溢れた水蒸気だったと分かった。体表がねばつくような気がする。すべて、人間の体に含まれていたものだろうか。上空はよく焼けた灰の匂いがした。
 高さ数百メートルの空から見下ろせば、より惨状がはっきりと分かった。
 生きているものなどなにもない。鳥の声も虫の鳴き声もない。静かすぎた。ただ風と潮騒の音だけが世界には流れていた。海を流れる無数の、水を含んで膨れ上がった何か、その形も分からない、分かりたくない。頭が見ているものを拒絶する。
 
「みにくいでしょう」
 
 涼やかな声がした。
 μは弾かれたように振り向いた。
 誰かがそこに浮かんでいた。誰かであることは分かるのに、美しい顔立ちをしていると知っているのに、服装も何もかも、すべてがうまく認識できない。女性、だろうか。声からしてみずみずしく若いはずなのに、すべてを眺望しているような、何か超然とした態度だが、不思議と違和感がない。
μは不自然なことに気がついた。彼女の体は雨に濡れていなかった。
「これは、滅び去った世界。あなたが見ているのは、その直後のものです」
「…………あなたは」
 なぜだろう。ずっと前から知っているようで、でも、確かに知らない存在なのだ。