39.こころの闇

 そう、フォティアの言う「すべてを捨てる」、それは自分の中の不純な思いをすべて捨てると言うことだ。フォティアはアエラスじいちゃんから言われたことを再び思い出し、

「じいちゃんが、こころの闇に捕らわれるなって言っていた意味は、そういうことなのか!」

と思わず声に出した。アエラスじいちゃんは、

「お前はまだ純粋じゃから素直にわしの言うことを聞いて稽古も農作業もするがのう、フォティアがこれから大人になり生きていくと、いろんな人間とかかわりをもつ。人はこころの中に闇を持つ生き物じゃ。その大きさは人それぞれじゃが、そんな人とのかかわりが、場合によっては己のこころの奥に隠れていた闇を大きくする。他人の言動や行動または自分と比較をし、劣等感、妬み、嫉妬、優越感、嫌悪感などが現れ、そこから怒り、憎しみ、恐怖、悲しみ、不安といった負の感情へと向かうのじゃ。そして、その行きつく先が人間同士の争いやいがみ合いになるのだ。そのようなこころはすべて闇じゃ。そんなものをもって武術を使えばただただぶつかり合いとなり、そしてそれは殺戮の道具と化すのだ。それは武ではない。むしろそのような負の感情を起こさぬよう、自分を知るために武術があるのじゃ。それを大きくせんように常に自分を見つめ改めねばならん。」

と言われていた。フォティアは何かすべてが繋がった気がした。しかし、人というのはそれがなかなか出来ない。感情とは厄介なものである。フォティアはその後、格闘訓練だけでなく普段の生活も含め注意深く自分を客観視しこころの動き、身体の動きを観察しながら訓練生活を続けていった。そして、誤った思いが過ると何度も何度も改めていった。それは薬物で汚染された人間にとって大変なことである。気を許せば元に戻ってしまうからだ。通常の人間をはるかに超える精神状態を維持していなくてはならなかった。その繰り返しはフォティアに高い精神性を作り上げていった。闇に落ち、闇を知り、そして悔い改め、それを消し去る。その繰り返しが徐々に本来のフォティアを取り戻していった。そして、訓練中にあることに気が付いた。

「武術の型が徐々に自由になっていく!型にとらわれなくていいんだ!」

と。フォティアはアエラスじいちゃんの型にはまった術や身体のこなしを取り入れて軍の格闘訓練をしていたのだが、その動きが何も考えなくても感じたまま自由自在にこなせ、すべて理にかなった動きが出来ていると感じたのだ。それはアエラスじいちゃんと最後の稽古の時に言われた言葉だった。

「今日までフォティアに教えてきた稽古は型稽古じゃが、いずれはその型を極めそこから自由になるように鍛錬しなさい。型はあくまで型じゃ、そこから本質を見出せば相手がこうしたらこうする、相手がこうでたらこうするなどと言ったことは考える必要はない。動けばすべて技になるのじゃ。じゃが、それが出来たからと言って終わりではない。人生、死ぬ寸前までが修行じゃよ。」

と。こうしてフォティアは軍での格闘訓練を学んでいき軍隊の中でも負け知らずになっていったのである。この段階でフォティアは若き日のアエラスじいちゃんのレベルにまで達していた。しかし、若きアエラスの時とは決定的に質が異なっていた。それは晩年のアエラスじいちゃんの教えがベースであったこと、そして、じいちゃんとの約束があったからだ。それは決して相手を傷つけてはならない、という言葉だった。フォティアは自分なりに工夫し相手を傷つけずに戦闘不能にすることに徹したのだ。それは、さらに高い精神性を要求することとなる。いつでも瞬殺出来るほどの力を持ちながらどんな状況であってもそれを一切使用してはいけないという自制を必要とするからだ。フォティアはこの縛りを背負った状況で訓練を続けているうちに、この縛りの本質が分かってきた。

「そうか、力を得るということはそれを使わないようにすることも学ばなくてはいけないんだ。でなければ無暗に力を行使してしまう。表裏一体でなくてはいけないんだ。」

と言うことに。この気づきは、すべての人間にとってとても大切なことを意味する。権力と言う力、財力と言う力、武力と言う力、あらゆる力を得たものはそれを本当に正しいこと以外には使用しないようにするという高い精神性を持っていなくてはならないのだ。感情の赴くままに行使してはならないのだ。しかし、魔に取りつかれた愚かな人間はその力を使うのだ。自分の欲のために。自分はしていないと言うものがいたとしても、力の大小を問わず人は必ず使っているのである。気付かないだけなのだ。
 フォティアは些細なことも含めこうしたことを常に考えながら残り少ない訓練生活を送り軍隊一の強さを身に着けたのである。その強さは、真の武術という見地において、若きアエラスを完全に凌駕していた。