病院での治療と検査そしてリハビリは順調に進み、担当医も驚くほどの速さで私は回復していった。そして、緊急入院してから約半年で私は無事退院することができ、それから数日間自宅での通常生活を送った後、職場に復帰した。
会社では今回の事故を非常に重く受け止め営業部内では通達の発布があった。それは私が会社に復帰直後、人事部からの呼び出しから始まった。人事部担当者は、
「宮本くん、とりあえず仕事復帰おめでとう。しかし、今回の事故は社長もかなり心配されていたんだ。若手のこれから有望視されている人材ですからね。それで、君の就業状況を調べさせてもらいましたが、かなり残業も多く組合の労使協定に違反しているのは知っていますね。今回の事故は君は被害者という立場ではありますが、過労などによる影響で回避できるものが出来なかったという見方もありますが、そのあたりどう思われますか?」
と言われ私は、
「確かにご指摘どおり、過剰な仕事量で疲れていたのは事実です。しかし、あの事故の一瞬は回避は多分出来なかったと思います。あのとき衝突した車両の後方にはもう一台後続車が走っていましたので、右側にハンドルを切れば後続車に衝突していました。左は歩道もなく細いガードレールでしたが、もしガードレールに突っ込めばその先は崖のようになっているため落ちれば即死だと思います。」
と言った。人事担当者は
「なるほど、そのときの一瞬の状況判断では打つ手が無かったということですか。確かに警察の話では道路には君の運転していた自動車のブレーキ痕が衝突箇所からある程度手前に僅かに残っており回避行動の痕跡があったと聞いていますから、決して運転に集中していなかったというわけではなかったのでしょう。
別に君を疑っているわけでは無いのですが、これも一応人事部の仕事でね。ただ、仕事量については、これは見過ごすことは出来ないので営業部長には宮本くんを含め今後対策を講じてもらいます。」
と言われ、その後営業部長からの通達で全営業部に対し特定の社員に仕事量が偏ったりしないよう厳しく指示が下された。私にとっては、かなり精神的にも肉体的にも楽になり、また宙美との時間も出来るためありがたかった。こうして、私は再び営業の仕事を続けていくことが出来たのである。
私はその後、交通事故による後遺症もなく普段通りの仕事をこなしていった。そんなとき、私の退院祝いを兼ねて飲み会をしようと同僚から誘われた。同僚たちからは私の保険金で飲み会だと言って嬉しそうして連れていかれた。もちろん冗談だが、今回の一件は仕事中の事故でありかつ私は被害者のため自分の医療保険は一切手を付けなかったため全額自分の手元に残ったのである。私は、
「何でこいつが、俺の生命保険の内容まで知っているんだ!?」
と思ったが、後から同僚に聞くと家族がいれば誰もが加入していて当たり前だと思って適当なことを言ったのだという。しかし、その保険金もご心配やご迷惑をかけた方々にお礼として使ったためかなりの金額だったがほとんど残っていない。
久しぶりの飲み会は一次会、二次会とあっという間に過ぎていった。皆、私の退院祝いと言うのは建前でただ一緒に飲みたいだけなのである。二次会も終わり私は同期の一人と軽くスナックで飲むことになった。ここまでくると話もつき、私はほろ酔い状態の同僚に訪ねた。
「お前さ、人生の目的ってわかるか?
なぜ人間は生まれてきたのだろうか?」
同僚は、
「おいおい、光太郎、お前事故で頭打っておかしくなったか?」
と言う。私は、
「いや、真面目に聞いているんだが。」
と返すと、
「決まってるだろ!
酒を飲むためだ!
沢山稼いで、沢山遊んで、沢山お酒飲むためだ!」
と同僚は元気よくグラスを片手に話した。私は、聞いた自分が馬鹿だったと後悔した。が、しかしこの同僚の言葉には思いがけない気づきを自分にもたらした。
人は生活のために働きお金を稼ぐ、当然の話である。家族を養うためにも出来るだけ多くのお金を稼がなくてはならない。ストレス発散のために娯楽やスポーツ、または今のような付き合いで飲みに行くためにも稼ぎは余分に必要だ。
そして、さらに稼ぐためには仕事で昇給するか残業を多くこなすか、または、それが趣味かもしれないが投資やギャンブルなどで稼ぐものもいるだろう。多くの者がこれを繰り返していくだけの人生ではないだろうか。
生きるということの真の目的を知らなければ、只、それを求めて繰り返すだけの何も成長しない人生になってしまうような気がした。
しかし、こんな中からも本当の生きる目的を見い出すものもいるであろうが、当たり前の普段の生活をしていては気が付かない。まず今の社会に対する疑問すら起きないのではないだろうか。平日は仕事に追われ、いざ休日で自分の時間ができたとしても娯楽や趣味やお金儲けに興味は向かい、人生というものを真剣に考えることをしないからだ。別にそんな人生を否定するつもりはない。以前の自分がそうだったからだ。
では、なぜ自分はこんなことを考えるようになったのだろうかと私は自問自答していた。いままで一度もそのようなことを考えたことが無かったのにだ。
そして私は自分の中で分かったことがあった。それは交通事故で昏睡状態のとき見ていた夢である。殆ど記憶に残っていないが、それがきっかけのような気がした。
人は死んでもその先があるのだと。そして、生きている間にどんな生き方をするかでその先が決まるのではと。魂と言うものがあるとするなら、死後天国や地獄のような何かそんな光と闇のようなものに分けられる気がしたのだ。そう、私の思考にはそれが前提条件となっているのだ。死んでも終わりではないということを。しかし、それを人に証明出来るのかと言われれば出来ない。逆に死んだら終わりだということも証明できないのも事実だ。私にはこの命題に、死は終わりでないという理由もない確信が自分のうちにあることが分かった。
私は、同僚との会話でそんなことを気付かされたことが嬉しかったのか思わず、
「お前、天才だな!」
と言ってしまった。同僚は、
「光太郎、お前、気付くのおせえよ!」
と、訳の分からぬことを叫んでいた。また自分は馬鹿なことを口走ったと後悔した。そんな、話をしている間に、もう午前を回っていた。私は同僚に、
「今日はこれでお開きにしようぜ。」
と言い各自帰路についた。