通信-15年10月14日
Thursday, October 15, 2015, 16:03
(2015.10.14 pm10:30受)
(※年を経て、明確になって来るもの)
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“良きもの(正しきもの)を見る目を持っている人は、
年を経て来るごとに、そのまなざしは、研ぎ澄まされ、
何ものが正しいもので、何ものが、そうではないのかの
分別が明確になるもの。
正しき分別の目を持たないものは、
自らの信じた、“なにものか”に固執し、
その、執着のまなざしを抱え込むように、
縄で、縛りつけるもの。
自らが、縛り付け、抱え込んだ、その、“なにものか”を、
あたかも、それが、命よりも何よりも重要なもので
あるかのように、固執し、続ける、理由というものが、
その、何ものかの正体が、何であるのか、
ということに、本人が、気付くことができない限り、
縄に縛られ、「循環のわ」から、脱出の
出来ないものであることに、
そろそろ気が付かなくてはならない時期が
訪れて来ている。
時代の変わり目であることに、いち早く
気が付いたものは、つぎの時代への用意に
着手しなければならない時期が
訪れて来ていることに、
そろそろ気が付くべき時が来ている。
おだやかではない、その変貌の時期に、
“何を為し、何を為さぬべき”なのかの、
分別の付くものは、どのような行動を、
自らが取ることで、どのような影響を、与えることに
なるのかを、知り得るもので、あるはずです。
ともに生きて存在をし、ある時期をともにして、この世で
はたらくことの意味を知るものは
このちのこの世における自らのはたらきと
役割というものを、知り、担うために
この時代に生まれて来たものである
ということに、気が付くものは、既に、
気が付いているはずである。
2015年8月4日
Wednesday, August 5, 2015, 20:33
(2015.8.4 朝)
過去、正しく祈り
義を行なってきた人間は
今、生きている人間に
巨大な贈り物を届けてくれていることになる
たとえその時非業の死を遂げたとしても
その名は いのちの書に記され
祈り求めた御国の時代に再生することに
なっている、
すべての約束は果たされるのだ。
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上記は「最終知識」に記載されている内容ですが、
繰り返し意識上に届けられるため、
掲出しておきました。
※一部、原文とは表記の異なる部分や、
省略されている一節もございます。
通信-15年6月15日
Tuesday, June 16, 2015, 18:18
(2015.6.15 pm9:05)
どうして、その親をわざわざ選んで、
その人生プランを選んで、
生まれてきたのか、
学ばなくては、ならないことがあり、
その学びの場を提供してくれる親を選んで、
あなたは、わざわざ、このちにおいて
その親となる人間を選んで
生まれてきたのでは ないのか。
自らの生まれてきた理由 というものに
はじめて自分自身が向き合い
思考という意識領域内において
それらの理由を 検討して思考を続けた結果、
得られた こたえ とは
何でしたか
自らの人生における
不遇な環境というものについて、
その理由というものを 真剣に考えた時に、
あるひとつの 明確なこたえ
というものに、向き合うことに なっていませんか
何かのテーマを与えられ
(もしくは自身が背負い)
このちに 何かのお勉強をするために
自身で選んで 生まれてきた、 という
とてもシンプルな こたえが
そこに置かれていることに
気が 付かれましたでしょうか
いかがでしょうか
ひととしての残存時間というものには
限りがあり、
数十年ほどの 決められた期間というものが、
いのちの時間として
与えられることになります
長ければよいというものでもなく
短かったからといって、それを惜しむべきものでは
ありません
それぞれの個々のいのちには、
その時の お勉強期間というものが
授けられ、その密度というものが
濃いものであれ 薄いものであれ、
その期間というものが
短いものであれ 長いものであれ、
いとうものでは ないから なのです
お勉強の期間内に、
どのようなことを、どれだけ、
学び終えましたか?ということが、
個々の、各々の たましいに対して、
問い掛けられている、だけなのです
よく、お勉強することが、出来ましたね、
よく、頑張りましたね、
と、評価をしてもらえるような、生き方を、
して、きましたか、どうですか、
少し、勉強不足でしたね、もし機会があるのであれば、
また、頑張りましょうね、
ということ、なのかもしれないし、あるいは、
残念でしたね、ということなのかもしれない、
その生存期間内に、おいて、
どれだけの努力を、
してこられたかたなのかは、
ご当人のかたの たましいに、
全て、嘘偽りのないものとして、
刻印が、なされている、ということなのです。
“自分が損をして、他人が利を得ている”、と、言って、
くやしい気分になった時に、
その時に、自分が何を学ばさせてもらったのかを、
よく、考えてみることです。
もういちど、はじめに戻ります。
あなたは、何を学ばなくては ならないから(かったから)
人間として、その人生のなかで
様々な お勉強を させてもらっているのかを、
よく、考えてみることです。
感情的になって、怒りを抑えることの できないかたは、
冷静になって、自らを省みて、思考をして“考える”
という習慣に長けてはいないかた
なのかもしれません。
自分にとっての不利というものが許せずに、
怒りを抑えることのできないかたは、
その感情のエネルギーというものを
爆発させることになりかねません。
何の理由が、起因となり、どのような状況と
複雑に絡み合って、そのような結果が、もたらされることになったのかを、
考える(思考する)ということが、
重要なことなのです。考えて、考えて、考えて、
冷静な意識の状況で、解析をする、ということ、
情に負けて、怒りに身を任せるものは、
怒りによって、滅ぼされることに なるから、なのです
ひとの、意識と、身体の関係というものが、
人間の人知による側の考察においても、
近年においてその認識というものが、劇的に進化をしつつあります。
様々な角度や分野における解析というものが成され、
対象に向ける意識や様々な研究というものが、
進化の加速というものを 早めてゆくことになるのでしょう
人知の側の知識と、神知の側の
ある領域に置かれている情報というものが、
正しきコンタクトによって、人間の知るものとなる時に、
ある種の合意のようなものが為(成)され、
人々の意識領域内に、もたらされるものとなることでしょう。
人知と神知の融合というものが、
正しき整合性を持って、もたらされた時に、
ひとの意識というものは転換し、大いなる進化をとげるものとして、
記録(記憶)されることになるのでしょう。
通信-15年6月3日
Wednesday, June 3, 2015, 13:46
(2015.6.3 am5:23)
その方の、意識の地獄(魔境)を
追体験させられるので、
その方の、負の遺産を、背負わされているような、
気分になります。
自分で蒔いた種は、自らで刈り取るのが、
ルールなのでは、ないのか
何故、自らでつくり出した原因の処理を、
他人に背負わせて、処理をしてもらおうと、するのか、
宗教というものに関り、自分にとっての都合のよい
カミさま、というものを、いつまでも自らの存在のうちに
置き続けていたい人間は、
何ものかに依存をし続けるという行ないを、
死ぬまでやめたくはない、方達なのでしょう、
光を当てれば、それらの闇は活性化し、活発化することに
なります。
それらの闇のエネルギーを認識できる方にとっては苦痛です。
その方の地獄や魔境的意識を、自らの小宇宙のなかで、
追体験を、させられるからです。
自らの意識領域を広げ、自らのうちなるものとして認識をし、
その意識領域内で処理をしてしまわない限り、
意識は魔境や地獄に、とらわれて
出口の見えない堂々巡りをすることになります。
他人を平気で呪い、逆恨みのエネルギーを放射して、
“自分は何も悪くはない”という主張を前面に出し、
全主張をするものに墜ちてゆくことになります。
自らの、器としての許容量の(少)ないものにとっては、
その、対峙させられている、見たくもない現実を呪い、
その、不遇な状況を、自分以外の何ものかのせいにして、
自己の正当性を主張するものに墜ちてゆくことになるのです
魔界や魔境で生きるものとは、そのようなものであるから
なのです。
はじめから、こたえがそこに置かれていることの意味を、
読み解くことが出来たものには、次の段階の学びが
与えられることになります。
道は険しく、自らの中に中心軸のないものにとっては、
ふらつき、ぐらついて意識の谷の底へと墜ちてゆくことに、なるのでしょう。
“何を、学ばなくては、ならないから、あなたは、人間を、やっているのか”
ということ、なのです。
人の足を引っ張り、足止めをさせているものが何なのか、
まだ、お気付きになりませんか、
自らが重荷となり、おもりとなって、何かにしがみついている
という状況に、まだ、お気付きになりませんか、
あなたは、何を、その人生で学ばなくてはならないから、
今、人間をやっている(している)のか、
と、いうことなのです。
気付いた人間から、そのステージにおける出口を見つけ、
次のステージへと進むことが、出来るのでしょう、
同じことは繰り返し、お伝えしました。
何を、学ぶために、あなたは人間をしているのか、
と、いうことなのです。
(以上)
(2015.6.3 am8:30)
“自分が自分に
躓いているだけなのに、
他人のせいにして
逆恨みをする人、
恥ずかしいとは、
思いませんか?”