通信-16年11月29日
Tuesday, November 29, 2016, 12:48
(2016.11.29 am10:受)
自らが審判の器である(になる)
ということを、知らぬものたちは、
自らの、その外部に
救世主というものを求め続け、
その何ものかからの恩恵を受けるために
自らの存在を差し出したものたち
それすなわち、羊の倫理
というもの
自らの思考による、判断、決定、行動
というものが、その存在のなかに
欠落をしている
指導者、といわれた、
その権威を自らのものであると
信じて疑わないものたちに
つき従い、つき進み、
その、責任のありようを
自らの頭で(判断で)放棄した
ものたち、
羊の論理(倫理?)
2000年もの長きに渡る
その呪縛の縄を解き、
自らの足で立つものたちには
人の子と呼ばれる時代への
参加の権利が 与えられている。
宗教の、時代の、終わり
ということの意味を
理解し、それを自らのうちにある
その、たましいと呼ばれるものに
刻印された何らかの意思(あるいはプログラム)
と呼ばれるものの意図するものが
何たるかを知るものには
新しい時代への参加をする
エントリー、というものが、
その、たまのなかに、
刻印が、成されている。
これらの時代が過ぎ去るまでは
わたしのことばは ちからを持ち
永遠のいのちを 欲するものたちには
その資格というものが
附与されることになるのであろう
あなたがたの よきみたま
と呼ばれるものは
火にくべられ
燃える精錬(精練)の火のなかで
鍛えられることに なるのであろう
本日は、ここまでです
自らの足で立つ ということが、
どれほどの 勇気と
意志と、正義が
ためされているのかを 知れば
自らの外側に
救世主を求め続けるということの
浅はかさに
気が付くことが 出来るのでしょう
通信-16年6月12日
Monday, June 13, 2016, 17:38
(2016. 6.12 am10:05受)
人間という種類の生き物は、
自らの希望するカミさま像というものを
その意識のうちでつくり上げ、
自らのお願い事をきき入れてもらえるように、希望し、
その対象に向かって、祈り続けてきた、もの。
自らが、その意識上でつくり上げた 何ものかに向かって、
お願い事をするという滑稽さに、気が付かないもの達は、
その、自らのつくり出した閉鎖系の、自分の希望する
ワンワールドの中に、閉ざされることになるのであろう。
“自らにとっての、その都合の良い、自分だけのカミさま像”
というものの正体に気が付いた時、一体、何が、起こるのか。
自らが、祈り崇めていた、その対象の何たるかを、
知ることになるのであろう、ということである。
思い通りにならない人生を呪い、恨み、逆恨みをすることで、
うまくゆかない責任を、自分以外の何ものかのせいに
仕立てて、自ら自身の問題点という部分に
目を向けないように仕組まれた、仕組み、とは
一体、何なのでしょうか。
問題の所在を、すり替える、ということが、これから先も、
続けられてゆく限り、本来の正しき出口というものを
見付け出すことは、益々難しいものとなってゆく、
ことでしょう。
自ら自身の暗黒点に目を向け、見つめ続けるという作業を
やり終えない限り、責任の所在を、自分以外の何ものかに
押し付けて、“自分は悪くはない”、という言い訳をしながら、
この世を去ってゆくことになるのでしょう。はじめから、
正しき出口を伝え続けているにもかかわらず、何ものかに
責任を押し付けようとするもの達の共通した言い訳とは、
何だと思われますか、“分からなかった” “知らなかった”、
と言い続けることをやめないもの、とは、
「自分の見たいものしか、見ようとしないもの」でしか、ないからです。
それが、こたえだからです。 (以上。)
通信-16年2月13日
Monday, February 15, 2016, 12:17
(2016. 2.13 pm4受)
『たましいの、お話』
にんげんの、たましい、というものは、
実は、とっても精妙に、つくられていて、
ほんとうの出来事だけが、
きちんと、記録が…
実は、成(為)されて、
いるのです。
たましい君は、ある時、旅に出ます。
実は、どこからやって来て、
どこへ行くのだろう??という
疑問に、こたえてくれたひとは、
まだ、いません。
たましい君は、これから、色々な
旅に出ます。
“ボクは、一体、どこから来て、
一体、どこに行くのだろう?”
“ボク達は、みんな、一緒の旅に
出るのでは、なかったの??”、と、
たましい君は、問いかけます。
どこからか、声がして、
“みんな、行き先はそれぞれ、
違うんだよ、”と、教えてくれました。
たましい君は、“じゃあ、ボクは、
一体どこに行くんだろう、一体
どこに行ったらいいんだろう?”
と、問いかけます。そうしたら、また、
どこかから、声が聞こえてきて、
“キミは、一体、どこに行きたいんだい?”
“どこに行きたいと思っているの?”と、
聞かれました。
そこで、たましい君は、ちょっと、
困ってしまいました。
“行きたい先”、なんて、考えたことも
なかったし、その先に、何が
あるのかなんて、考えたことすら、
なかったからです。
(困ったなあ…)と思っていたときに、
また、声が聞こえました。
自分が行きたい先が、どんなところなのかを、
考えてみたことが、あるかい?
にんげんとして、からだを借りている間、
というのは、限られた、お勉強の、
「時間」なんだよ。長いと思うひとにとっては
とても長いものかもしれないし、
“もっと、時間が、欲しかった”、って、
思ったひとにとっては、とても、
とても短い時間だったのかも、
しれないね。
そこで、たましい君は、その声の主に
聞いてみることにしました。
“たましいの、じかん、って、何なのだろう?”
そうしたら、その声の主は、
こう言いました。
“からだを持って、宿らしてもらえた
時間内に、どんなことを、どれだけ、
お勉強をさせてもらえたのかな”。
と、いうことを、問いかけられました。
とっても、しんどいお家(うち)に生まれて、
カコクな、生き方を、してきたよ。
という人は、(よく頑張りましたね、
お疲れさまでした。もう充分に、
お勉強をさせてもらえたようだから、
ゆっくり、休んでくださいね、)、と、
ほめてもらえるような、そんな、
生き方を、してきた、かたなのでしょう。
“さむいところで、つらくて、苦しかったよ”
と、いう、おもいを抱えたまま、
からだを去ることになった、たましいは、
どこへ、向かうのでしょうか。
ひとりひとりの人間の中には、
『たましい』というものが、存在をして、
その肉体に宿ることが許されています。
どんなことを、その、限られた、
数十年の間に、学びましたか?
ひとりひとりの身体という肉体に、
宿ることを許された、
その、たましいの、お勉強、とは、
一体どのようなものでありましたか、
つらくて苦しい生き方をしてきたひとは、
もしかしたら、今回で、ゴールにたどり着くことが
出来るかたなのかも、しれません。
“よく、頑張りましたね、”と、
その声のもとにある、ある種の存在に、
ほめて、ねぎらってもらえるような生き方を、
して、きましたか、いかがでしょうか、
どのような目的のために、
人生の、その時間を使ったのか、
“誰のため、何のため”、という
目的と、その方向性と、時間軸、
というものが、決定的に、
問われることになるのです。
“どこかの、誰かが、どのような目的の
ために、幸せで、ありますように”、と
祈るということと、自分の立場を維持するために、
何かの仮物の衣を着て、
生きようとするもの、とは、決定的に、
その目的と本質というものが
異なるのです。
たましい君は、旅に出て、
それらのお勉強をするために、
色々な人達と出会い、お勉強をして、
自らの中での知識というものを、
積み上げて、ゆくために、
その、蓄積した知識を
世の中に還元してゆくために、
存在を、しているのです。
たましい君は、旅に出ます。
これから先、出会う人達から、
何かを学ばせて、もらうために。
それが、たましい君の、人のからだを
借りて、存在をしている目的という
ものなのです。(おしまい)
“自分の人生が、
無駄で、徒労で、
不毛なものだった、と、
思わないで
欲しいのです。”