〈プロローグ的モノローグ〉6

中学一年の三学期から、卒業までを広島で過した後、父の大阪刑務所への転勤に伴って、大阪は堺に転居して、今度は大阪弁に遭遇することになりました。私を指さして、「自分な」という、その指の向きが逆ではないかと思ったことは、いまでも忘れられません。大阪では、「君」と呼ぶところを、「自分」と呼ぶのです。その高校一年の夏休みに、転勤して間もない父が、うつ病で自殺しました。病院の七階からの飛び降り自殺でした。その前にも、入院中に、首吊り自殺をはかったことがあり、見舞いに行った少年の目にも、その首についた細いロープの傷痕は痛々しいものでした。なぜ、大阪刑務所に転勤先が変わったことで、父が自殺したのか。長い間、謎でした。それが、ああ、これなんだと突然、理解できたのが、「ヤマザキ、天皇を撃て」の奥崎謙三が、出ていたドキュメンタリー映画を見た時でした。天皇パチンコ事件で有名な奥崎謙三は、日本兵が日本兵を食べたとされるニューギニア戦線の生き残りで、当時、大阪刑務所の受刑者だったのです。映画で、その奥崎が出していた波動こそ、父の死で、私が受け継いでしまったものに含まれていたものだったからです。「シャムは極楽、ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア」といわれた、あの戦線の記憶です。

(つづく…)

二千二十二年 六月二十四日 積哲夫 記