地元で、桜の開花宣言がニュースになった翌日、病院に入院していた義父が旅立ちました。
午前三時ごろに、見回りに行ったら、すでに呼吸が止まっていたそうです。
コロナの影響もあり、入院後はまったく面会ができなかったので、残された家族にはやはり、納得できない思いが残っています。
おりしも、物質界と重なるように存在していた霊界と、魔界の境界線がなくなったらしいという情報も得ていたので、家族として私は亡くなった義父はどうなっているのかと心配でした。
脳出血で倒れたのが11年前、それから自分で努力して要介護5から要介護1まで回復し、車いす生活で右半身まひながら自分のことは自分でできるように頑張っていた義父。倒れる前から『命の書』には登録していたけれど、亡くなるまでの人間としての苦労は、施設への入所という環境の変化も加わり、大変なものだったと思います。
コロナでの面会制限がなければ、毎日でも病院に行って話を聞くことができただろうに…。少年整備兵として第二次世界大戦に参加しただけあり、忍耐強さは人一倍あったと思います。私は、義父が入院してからはイコンデバイスで、遠隔にてイコンシールの波動を送っていましたが、それらが義父の助けになったことがなぐさめです
。
お葬式の時には、秘跡オイルを塗布(終末の秘跡)して、義父を送り出しました。
ガンを患った実母の時は、波動シールはまだ存在していなくて、SEKIオイルしかなかったので、ずっとは母親にオイルトリートメントをし続けました。今回は、近づくこともできない環境でしたが、遠隔で闇を除去し、光の波動を送ることができる方法があり、義父にしてあげられることがあって、ありがたかったです。
それでも、人間が一人いなくなるということは、いろいろな人に影響を与えます。
発熱はなかったものの、私はお葬式後には風邪の症状が続き、家族の体調も悪化しています。残ったエネルギーの処理をするために、毎日、自分自身の頭頂に「最後の審判」の波動シールを貼って、審判の希求を繰り返していますが、情けないですが体感はもう一つというところでしょうか。
一昨日、用事があって、心霊師のTさんに連絡を取ったところ、途中でTさんの声が出なくなるということがあり電話を終えたのですが、翌日気になって再度、連絡を取りました。三月末に義父が亡くなっていることを伝えたところ、「ありがとう。感謝している」という感じの思いが伝わってきているといわれて、私はTさんを通してあちら側の義父からの伝言を受け、たましいの安否が確認できたのです。
どうやら、魔界と融合したあちら側でも、義父はちゃんと存在できているようです。安心しました。
人間って、生きている間は嫌なことや苦しいことをたくさん体験します。それは死ぬまで続くことなのでしょう。そして、そこから逃れたいと思うのが、普通の感情でしょう。
私はそれらの思いが意識の表面に出るたびに、自分に言い聞かせるようにしています。
「私が生まれる前から地球は闇の中にあり、この状態であることはわかっていて生まれてきたのでしょう。だったら最後まで人生を完遂するしかないじゃない」
まあ、私流の自分自身を納得させるおなじないです。
覚えがなくても、自分で選んで生まれてきたのなら、私は、私の物語の最後までを読み通すしかないのです。ほしかったのと、まったく違ったストーリラインが出てきたとしても…。
ところで、少し話は変わりますが、死ぬっていうことは物質的な肉体がなくなって、たましいだけの存在になるということですよね。そのたましいには、データとしてのこれまでの記憶しかないとしたら、肉体をなくすという変化が起こったのちに、肉体を持っていた時の記憶や感情ってあまり意味がないような気がします。
うまく伝えられないかもしれませんが、死んだときから先は、これまでの人間であった時と全く存在の在り方が変わるわけで、これまで物質的に制限されていたものがすべて(?)なくなることになります。ということは、人生の多くを占める『人間関係のいざこざ』『お金の問題』などの、物質界にいるからこそ制限されたり、背負わされたりしているくびきが外れていくことになるのです。
そう考えれば、生きている間に負の感情をため込むことに意味はあるのでしょうか?
永遠はなく、そう遠くない未来にはすべての物質的なくびきや関係性から、死をもって解放されるのに、です。人間が、負の感情をたましいにため込んだ結果、それらが次のカルマとして残るのなら堂々巡りになりますよね。
それは復讐権(納得できない思い)にも通じる行いになっているのでしょう。ですから、繰り返し人間を最初からやらなければならないことになります(生まれ変わらなければならない)。
じゃあ、どうすればいいのか。
もう、すでに肉体をなくしたたましいの視点で他人に接し、たましいの位置から世界観を確立するしかないと思います。自分が人間であり続けると思うから、人間固有の問題にひきずられてしまうのかもしれません。
死は、肉体や物理的な制限からの解放であり、人間の生はたましいの存在期間全体から見たら、限られた時間の特殊な体験でしかないのです。
注目すべき視点を反転させたら、地球は闇の中にあっても、恐れるものは何もないことがわかってきます。単純ですか、ね。
ではまた。