『神を超えよ! 仏を超えよ! 積哲夫の言葉【一の巻】』の紹介記事 その②

 

———–以下抜粋—【第二回】から

何田 私は幼い頃から、自分も周囲も認める、運の悪さが際立っている人生でした。不運が重なる時、いつも頭にあるのは人の幸福とは何か、本当の幸せとは何かというものでした。そしてその答えを求め続けると、ある疑問が必ず出てきます。人類が知りたくても、知ることのできなかったテーマです。

それは、私はどこからきてどこへ行くのか、人間はどこからきてどこへ行くのか、という疑問です。解き明かすことができなかった人類のテーマについてお教えください。どうぞよろしくお願いいたします。

 幸福や幸せというものはその人の、その都度の認識によるもので人によって違いますし、同じ人でもその時々の感じ方によっても変わります。何よりその人が幸せと思えば、その期間は幸福と感じます。しかし、永遠に続くものではありません。そんな幸福や幸せという感覚が永遠に続くという考え方が間違いなのです。永遠というものは言葉の毒であり、見方を変えればそれは迷宮、出口がないことになります。しかし喜びというものはたましいの中に記録されていて、人間にはたましいがあるため、喜びを求めます。たましいというものが人間に宿っています。たましいとは光と闇のエネルギーが混在しているものです。生まれた時は光のエネルギー五十パーセント、闇のエネルギー五十パーセントを占有しています。光のエネルギーはとても神聖で崇高なエネルギーなのです。闇はその逆です。

私はどこからきてどこへ行くのかという、質問に対して解りやすくお答えします。まず、どこからきてとは、人間は過去の神界から出てきて、その内側にこの宇宙の物語のメカニズムをたましいという中に閉ざして、人間として生まれてきます。だから人間は神の子なのです。過去の神界のものだから神の子、神々の子、悪魔の子でもあります。悪魔も神界のものですから。人間はその過去の神界にあった物語をこの世に移しているだけなのです。人間は自分で現実を行動しているように思っています。しかし本当はたましいのプログラム通りに行動しているのです。過去にあった神界の物語をくりかえし、くりかえし、形を変えてこの世で再現しています。このあたりを詳しく知りたければ、出口王仁三郎の霊界物語を読まれればいいです。

いつも私がいっている、重要なことはたましいの中に答えがある、ということです。発見できないのは自分に原因があります。悔い改めがないから答えを発見できないのです。人間は身体がある間しか成長ができないのです。それは人間の身体が、あるいは我々の意識が、もとたる神のエネルギーを光と闇に分離するのにどうしても必要だからです。

人間はどこからきてどこへ行くのかという質問に対して、どこへ行くのかの部分ですが、人間が自分の過去の神界を光と闇に分離し、闇を浄化して、その内なる問題がたましいの内側で解決すれば、本当の光の世界に行けます。そこが本来の純正なる光の神界です。

多くの皆さんは勘違いをしています。霊界から出てきて人間になって人生を送り、また霊界に戻ると世間ではいいます。それが輪廻転生の循環の輪です。しかし循環するだけなら、人間になる必要はありません。また、霊というのは記録として間違いなく存在します。しかし、たましいの中心にあるのは神性です。たましいの中心に神の性、神の光を持たなければ、人間として生まれることはできません。実はそれが原則なのです。その本当のたましいの実態を知らないで死んでいく人間が、あまりにも多いのです。その結果、死者たちの霊的エネルギーがこの世に滞留して、循環の輪があるように見えているだけなのです。

今、説明している内容は現時点では日本人、それも日本語脳のものしか理解できません。なぜ最終知識が日本語で書かれているのでしょうか。それはほとんどの国が宗教を卒業していないからです。実は日本という国、及び日本人は千数百年前、あるいは日本建国の最初から宗教というものを卒業しています。その理由は日本が最初から、そういった特殊な国の造られ方をしているからなのです。

———–抜粋終わり—–

人間は生まれ変わり(輪廻転生)をするために生まれてきているのでもなく、人間的な幸福を追求するために生まれてきているのでもありません。たましいのプログラムがあり、それを果たさなければ、生まれてきた意味を全うしたことにはならないのです。

ひとのこ