葬儀に参列してみて

11月16日に、叔父が急逝しました。数えで88歳。

朝、畑に出て昼前に帰宅後、自宅横の納屋で倒れているところを発見され、死亡が確認されました。死因は心臓発作ということです。昨日は友引だったので、本日午前9時から、最寄りの斎場にて葬儀が行われて、血縁関係のある叔父ではありませんでしたが、初七日まで付き添わせてもらいました。

 

お骨上げまでの2時間ぐらいは、親戚同士の久しぶりの邂逅の場になるのですが、今回の喪主は60歳代の独身の従弟。同居しているので、倒れた叔父の発見者でもあるのですが、冗談めかした口ぶりで「早めに発見していたら障害が残るような状態だったかもしれない」と、暗に亡くなってからの発見を安堵するような口ぶり。そういえば、12年前に叔母が肺がんで亡くなったときも「何度も入院を繰り返すから、費用がかかった」みたいな発言を葬式の場でしていたな、と思い出しました。

 

収入が安定していないということも一因なのですが、だけど、それらの発言を近しい人間の誰もが気に留めなかったことから、あらためて普遍的な闇の一部がそこにあるのだと認識したのです。人の立場や、親子関係はそれぞれだし、各人の人間性もおのおのなのというのは承知しています。

 

それでもそれらの言葉や考えは切ないし、それに意識を向けてしまうと、重く黒い塊を感じます。これは従弟だけではなくて、今の時代を生きている人の中に巣くっている経済的なものへの恐怖、または澱のように沈殿している不安と、自覚していない(?)計算と悪意なのかもしれないです。

 

何度も体調を変えた実父が、点滴だけになり、終末を迎えている私には、ことのほか堪えるテーマです。私も状況が変われば、従弟らと同じ思考をするのかという……テーマも含まれているのです。

 

ただ、私にとっては、寝たきりの状態でも高齢でも親が存在してくれるのはありがたいのですが、それは私自身のただの感情的な欲でしかないことも自覚しています。

その欲を超えた、「父が、光の宇宙の光に繋がりますように」という言葉と、父の中の闇は私が背負うということを宣言しており、オイルやイコンシールを使いながら、残りの日々を寄り添いながら父親を見守っていきたいと思います。

 

親との別れは、等しく訪れるので致し方ないとしても、それと同時に親子の関係性も含めた重いテーマがあり、精神の成長への踏み絵の働きも果たすのだと知りました。

 

日戸乃子