通信-19年5月6日
Tuesday, May 7, 2019, 18:22
(2019.5.6 am8:55~受)
“旅の仲間たち、
旅はもう、
終わりに近付きつつある。
何の用意が必要なのかを、
考える時が近付いている、
あなた方に、何が託されて、
どのような未来をつくらなくては
ならないのかを、
一人一人の人間が、
生命を持つ、あなた達が、
自分の頭で、考えて、つくり出してゆくための
準備期間というものが、
これまで。
自らの意志で、選び、
自らの頭で考え、行動し、
この先の未来の姿、形、ありようというものを、
創造してゆくことが
求められている、ということなのです
旅の、仲間たち、
苦楽を共にした、
旅の、仲間たち、
生きて、身体を持ち、
存在をすることの、
苦しみと悲しみを、知る者たち、
あなた方に託されたものが何なのか、
もう、判断が、
出来ている筈(はず)です、
努力をしなさい、学びなさい、
その先に、得られるものが何なのかを
知るものたちには、
永遠のいのち、というものに、
入ることが、できるのでしょう
それは永遠の生まれ変わりということ
なのではなく、
約束された領域へと
到達することが
可能になる、ということなのでしょう、
生命体としてイシキを持ち、
その存在のあり様(よう)といいうものを
自らが体現をすることにより、
この現実世界において、
何らかの変化や変容というものを
もたらすことが出来るということに、
もう、既に気が付いている方達が
少しずつ増えて来ているはずです
旅の、仲間たち、
あなた方に託された(託されている)ものが
何なのかを、既に、
気が付かれているはずです、
努力を惜しまずに、
苦労を重ね、その結果、得られるものが何なのかを
気付かれた方に、
もう、生まれ変わる必要さえ無いことが
分かるはずです、
旅の、仲間たち、
身体を持って、人間として存在している
意味について知るものは
幸いであり、あなた方は、
あなた方のその努力の結果を
実りとして、受け取ることに
なるから、なのです
旅の、仲間たち、
生き抜くことの勇気を
どのような試練に遭ったとしても
捨ててはならない、ということです、
前へ進もうとすると
それと同じ位の ちからが、
押し帰(返)されるということです、
楽しくうれしく心地よく快適に
生きていたいと願い続ける人達を
誹謗し、中傷しては、なりません。
なぜなら、それはその人が選んだ
選択でしかないからなのです
どの道を選ぶのも、
ご当人のかたの選択でしか
ないから、なのです、
旅の、仲間たち、
かぎりある時間という 空間のなかで
どのような努力を、惜しみなく、
いとわずに、やり遂げることが
出来ましたか、
それはつまり、どのような未来のあり方を
後から来られる方達のために
提示する事が、
できましたか、という事なのです、
旅の、仲間達、
あなた方に残された時間は
限りなく、少ない、
焦る必要は ありませんが
行動に移す時が刻々と近付きつつあることに
気が付くべき時が、来ているようです、
どのような目的のために、
その人生の時間を費やしましたか、
という事が、身体の役割を終えたあとに、
問われることになるのでしょう、
旅の、仲間達、
どのような未来をつくり出してゆくことが、
このちを明るくきれいにして
正しき目的のために地球を返す
ことになるのかを、
考えて、実際に行動に移すということ
なのです
見えても見えず
聞いていても聞こえていないもの達に
時間と労力を費やす必要は ありません、
もう、そのような事に浪費する
時間は、残されてはいないからなのです、
旅の、仲間たち、
ねじ曲がることのない
正しき信念と浄化力、行動力の
準備は、もう出来ていますか、
生きる事の意味について
問われた時に、
濁りのない、その眼(まなこ)で、
真っすぐに前を見て、
きちんと答えることが、できますか、
勇気と正義は、セットです、
ですが、そこに愛という根本的なものが
存在をしていないと、
自らを正当化した殺し合いに
つながることが、あるからです、
(宗教は そのような歴史をつくり出してきた)
“本が一冊、残ればよい”と、伝えてきた事の
意味について、
その知識が存在すれば、
そこから始めることが出来るものが
必ず、あらわれることになる
ということが
こたえになる、ということだからです、
惜しまずに自らを研磨し続ける
ということは、刃(やいば)の先端を
相手に向けるということでは、ないのです、
正しい事と、そうではない事の
判別が出来るような、
明るく清浄な 眼を持ちなさい、
それは 正しい意識を
持ち続ける、ということなのです
(~am9:43)
通信-19年3月23日
Monday, March 25, 2019, 16:11
(2019.3.23 pm0:30ごろ~受)
「闇のことばを使うもの」
人間という生き物は
意識的であれ、無意識的であれ、
口から発する言葉によって、
周囲に影響を与え続ける生き物であり、
その、もたらす結果や効果というものを知るものほど、
利己的な利害関係の優位な立場に
自らを位置づけるために
意図的に言葉を吐き続ける
生き物である、ということ。
現在のこの世においては、それらの、
人間が口から発し続けることばによって、
意識することもなく、無意識なままに、
自覚をすることもなく容易にコントロールを
されているということに気が付くことの
出来るにんげんは、少ない、ということであり、
不特定多数の人間は、そのようにして
他人の口から発されることばによって
その意識領域を、明け渡してしまっている、
ということである。
「闇のことば」を発する人間ほど、
その責任の重さに気が付くこともなく、
口から撒き散らすことばによって
周囲の人間を汚染し続けるということであり、
その責任と罪を、死後背負わされることに
なるであろう、という事である。
ことばが人間に与える影響力と、
それを利用し何かを得ようとする人間の
罪の重さというものを、考えない
(考えようとすることすらしない)人間は、
自らのつくり出した
その罪罰を受け取ることになるのであろう。
周囲に毒を撒き散らかし続ける人間と、
一見したところ、耳ざわりのよい、
他人のためという主旨のその背後に隠された意図が、
邪悪な目的に満ちたものによる操作的なことばを、
意識的に使い続ける人間の奥底にひそむ、
善人のふりをした邪悪なものの使い続ける何ものか。
それらの正体を見破ることの出来ないものは
永遠にだまされ続け、奪われ続けるもの
(=羊)の運命を辿ることになるのであろう。
同じ知識を学ぶものであれ、このようにして
分かれゆくという事であり、
自らが何をしているのかが分からないものの罪は
問うことが出来ないという時代は、
既に終わりを迎えた事が、既にこのちの人間には
(ある領域において)通告済みのことであり、
“知りませんでした”という言い訳は
既に通用することはない。
気が付こうが付かなかろうが、
それらのルールは既に適用済みのものであり、
既に新しいルールは
このちに置かれているということ。
人の失態を笑い、馬鹿にしている暇があるのなら、
自らのそのうちに巣食うなにものかを、
一刻も早く、始末をすることである。
同じ穴のムジナ、である人間ほど、
他人の失敗や失態を笑い、
自らのうちに巣喰う邪悪ななにものかに
居場所を与え続けているということである。
早く気が付かないと、時間は無いという
その事実、現実から、目をそむけるために、
あなた方、人間に、何が無償で用意がなされているか
ご存知では無い方々が、何ものによって、
その意識を操作されているのかを
考えてご覧なさい、ということ。
人間の頭を、無能なものにするために、
どのような娯楽が用意されているのかを
考えればよいだけの話です。
人生の限りのある時間を、何を目的としたものに
使い続けてきたのかを思い返してみれば、
利己的な、その何かのために浪費した
決定的な事実のようなものが、
意識上に浮上してきてはいないのか、どうか。
たにんのために動いたという主張を
し続けるものほど、他者の思いのエネルギーを
自らのもとに集めることに労力を使い、
自らが、ピラミッド型の頂点に立ち、その他の
人間を支配下に置こうとした罪について
意識を向けることすらしない、という事である。
エネルギーを使って、このようにして他者を
コントロールしようとする人間は、自らのおこないについて、
自問自答をすることすらしない、という事であり、
そういったタイプのエネルギーを
行使する人間に、多くの考えない人間は、
コントロールをされているということ。
その、エネルギー的な支配被支配関係の
関与しない、外側から、
それらのしくみを客観的に、
かつ俯瞰的な立場で観察することの出来ない人間は、
自らの羊としての立場を知ることもなく、
考えることすら放棄して、
この世を去ってゆくことになるのでしょう。
同じ知識を知るものが、このようにして
(既に)わかれる(わけられた)ということであり、
そのようにして、周囲を汚染し続けるにんげんは、
自らのおこないの結果を、
受け取ることになる、ということなのです。
ご理解をして、頂けましたでしょうか。
(~pm1:30)