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通信-12年11月25日
Monday, November 26, 2012, 13:20
(2012.11.25 pm8受)

何かの道が用意されているのではなく、
あなたが、その道を、切り開いてゆけ。
ということである。
誰かが既につくり終えて用意がなされた道を、
てくてくと歩いて、なぞらえるのではなく、
あなたが、その道を、
切り開いてゆきなさい、ということである。

通信-12年11月25日

Monday, November 26, 2012, 13:20
(2012.11.25 pm8受)

何かの道が用意されているのではなく、
あなたが、その道を、切り開いてゆけ。
ということである。
誰かが既につくり終えて用意がなされた道を、
てくてくと歩いて、なぞらえるのではなく、
あなたが、その道を、
切り開いてゆきなさい、ということである。
これで、正しいのだろうか、と、
立ち止まり思案することは、必ずしも、
その道には伴ない、身動きすることが出来ずに
その場にとどまり続けるような事態は、
必ず起こり得るであろう、
そこで、あなたが、何を基準に判断をし、
そして決定をするのかは、
どのようにして決めることが出来るのか、
自分自身が自ら自身に問い、
そして、おのずから、正しい解答を導き出すために、
精神学の道は用意がなされているもので
あることに、気付いて下さい、
誰かが、あなたを、助けるのでは、ない。
あなたが、人々を助くる者として、はたらくために、
用意を自らでしてきたということに、
早く、気が付いてください。
誰かの何かの恩恵に、ぶら下がり続けることが、
あなたの生まれてきた意味では、ないはずです。
そのことに早く気付いたもの達が、
何もない荒地を
切り開く用意をするもの達だからです。
普通の人が生きるより、苛酷な人生を
歩むことになるのかもしれませんが、
あなたが、あらかじめ、その運命を
知った上で、わざわざ、この時に、
その人生を選んで生まれてきたもので
あるのだとしたら、
あなたは、あなたの、その人生を、
わざわざこの時に、選び取って
この世に生まれて来たものである
という認識が、
生まれて来ては、いませんでしょうか。
自分の人生の物語を知るために、
残された時間は、あとわずかです。
ひとりひとりの人間のたましいに
刻まれた物語を、自身が知り得ることが
出来るのなら、
自らが生まれてきた目的を、
自分自身が認識をし、
その人生をまっとうするために
生まれてきたものである、ということに
気が付くことが、出来るのです。
これで、準備は出来ましたでしょうか。

通信-12年11月11日

Monday, November 12, 2012, 13:37
※11月11日 ミカグラの場にて
(2012.11.11 pm1:04受)

かえらずのけんにたちたるは
わがみ なり けり
わがうつしよを あらわしたるは
わがきみの よ なり けり
つねづねに たち たる みよの
ひとのいにしへのよとなりけりたるは
つつしみ よ つつしみ よ
うちなりけりたる は わが ひところの よ
なりに けり
ともに うちに たちたるを ばは
ときのうつしの このよ なりけりに
ともの いにしへの うつしみ たるは
くにの とこの たつよの なりにけり
とも いにしへに うちなるみをも
ときつねづねに うつしたるをば
とき しも ともに
みん なりし ときを たまひたりける
みをば うつしけりたる
このよの うつるとき なりけりたるに
おもひ おもひ の とき うつしたまひければ
きちきし
ちかづきたるを しる
をと つたへたまへ
をと をと を かのよ からの
つたへたり たるを しる
きん ちかづきて ちかくにありて
みえづかなとも しりければ
とひたまへ このよのありさまを
しるもので あるならば
しるもので あるならば
きん ちかづきしとき とき ちかづきて
わんなりぬるを なりぬるを して
こへきくものの さ ありなむて
とおき みねの ちかづきし とき
さだかなる あしをとを きく そのみの なりの
あたらし を しる
あたらし を しる
たまの なる をの をと をとの
ひびき つたへたまひ
をくの しもの しんを とかしたまひ
たりける は
みことばの い を つたへたまひける
ものの なり なりて
なりなり て
なりなり て
おほひかぶせられたりし は
つじつまの なき その じんの
せい なり き
なり き

通信-12年9月8日

Monday, September 10, 2012, 15:57
(2012.9.8(くのはな) pm0:15受)

出口ワニサブローの言いたかったことの意味
を考えよ(よくよく考えよ)
このクニ これから滅びに入るぞ(よ)
国賊(コクゾク)どもに乗っ取られて
これからますます 激しくなるぞ(よ)
あらそいが あらそいを生み
言うこときかない奴には セイサイが
くわえられるぞよ
セイサイとは 直接その身に加えられることではなく、
シメアゲ(締め上げ)ぞ
シメアゲて 身動きできんようにして
家畜化ぞ
家畜化されたまま 考えることやめさせられて、
思考そのものも 乗取られるぞ
戦争が終わった、いうて
喜んでいたもの 何も見えてはおらんのだろ
本物の 戦争いうのは
何と何の たたかいなのかを
皆、知らんのじゃろ
背後で 糸引いて締め上げて、
家畜化しようとしているものの正体にさえ
気付かされることなく 皆、生きて生活をしているからじゃ
小さな しあわせが、目先の欲望となって、
この地球全体が いかなる流れで動いて
いこうとしているのかを 知ることもなく
目先の生活の大事さを囲い込んで
その中でしあわせに 生きてゆきたいと
思うているから なのじゃろう
じぶんが 家畜になりたくないのなら、
賢いにんげんというものは
アタマ使うて 考えるもんや
自分のこと救えるのんは
自分だけやで
ひとに頼って何とかしてもらおうと思うてる限り
あんたら 皆、思考停止したままの
家畜と一緒やで
わかっているんやろな
そのこと伝えているのんが 何なのか
知っているやろ
なんでそのこと人に伝えてやらんかな
誰かが やってくれるわ 思うている限り
だ—–れも 動かんことぐらい
分かっているやろ もう充分 お勉強さしてもろたやろ
どうしたら いいんやろ
何をしたら いいんやろ、 いうて、
うだうだ考えとるヒマが あるんやったら、
“何が、できるか” を 考え、いうとんのじゃ
できることからはじめていかな、
ほんまに 残りの時間が なくなるで
あとで後悔せんこっちゃ
あとは ひとのしごとやろ?
ちゃんと伝えておるはずじゃ
ひつくのひのじは ひみつの ひ
こたえは あとで わかるのじゃよ

通信-12年9月5日

Thursday, September 6, 2012, 13:07
(2012.9.5 pm8:45受)

先生は、先生候補になる人を、
すぐに見つけ出すことが出来る、
苛酷な状況下で生きてきた人は、
自分と同じような境遇で
生きてきた人を、すぐに見つけ出すことが、出来る
同じあやまちを繰り返さないために、
あるいは、2度と同じような悲劇を
くり返さないために、
ひとは学んで学習し、それを次のひと達に
伝えることが可能です。
その学びの題材が、人間の精神である、
というところが、精神学の出発点です
通常の学習と同じように、
それは、誰かに何かを教えてもらわなくても、
自分ひとりで、学ぶことができる類のものです
過去の宗教システムというものは、
ピラミッドの頂点に教祖が立ち、
その下に順位を付与したかたちで、
下位のものへと、という位(システム)で、
そのシステム自体が成り立ちます。
上からの情報伝達が、下位のものへと、
という流れのシステムが、厳格なるものとして、
その基盤に置かれています。
下位の順位に置かれたものが、その、はるか上の
情報に接することは、ありません。
ある種の家畜養成所のようなパワーシステムが
そこに成り立っているからです
ピラミッドの形に象徴されるそのシステムが、
ある種のパワーゲームとして、この地球に存在し、
それらは、その力を拡大させたいものたちによって
今もなお、その勢力を拡大させようとして、
この地に蔓延しています。
それらのものたちの主張する根本には、
死んだ後のことは一切関与が無い、という
根拠です、
つまり、今、生命を持っている間に成した事には、
死んだ後(のち)には何の関係も無い、という
言い分です。
生ある間の所業は、死後には何の影響も
もたらさない、という主張であり、言い分です。
そのような理屈が通るほど、
この世のルールは甘いものではありません、
目には目、歯には歯というルールは
厳然として存在し、
他人に痛みを与えたものには、そのまま
当人のもとへと その痛みが返されます
やりっぱなしで、責任を問われない、という
ルールなど、存在はしていません、
“無い”と主張をするものは、
無いものだと信じ続けていたいだけの
お話でしか、ありません。
目には目、歯には歯、
痛みや苦しみを与え続けたものには、
それ相応の 末路というものが待っている。
それだけのお話でしか、ありません。
残念ながら、多くの人達には、この先の
進路というものが断たれています。
自らの生きている間の所業というものが
問われることになることを認めたくない人達ばかり
だからです、
やりっぱなしの、周囲を汚染したままで、
心地良く、快適に去ることなど、
本当に出来ると、思っているのでしょうか、
「自らの所業は、問われます」
ただ、それだけのことでしか、ないのです、
許しはありません、
ただ、裁きのみは、置かれています。
自らのおこないと、それまでの人生というものを
自ら自身に問えば、
ご自身の所業というものが、必ずや、
見えてくるとは思いますが、いかがですか、
あらためるための時間は、無いようにも思えますが、
“棺桶の蓋が閉まるまで”という猶予は残されています、
それまでの間に、何をどうするかを、お決めになるのは
ご自身です。よろしいでしょうか。