通信-08年6月20日
Friday, June 20, 2008, 21:43
(2008.6.20 pm8:20受)
自分は、とても、
ちっぽけな、ものです。
ちっぽけなもので
あるからこそ、
誰にでも、やさしく、なれるのです。
“いと、ちいさきものである、”
ということばが
意味するところの、
出発点、とは、だれかのために、
じぶんが、はたらく、という こたえ。
あなたが この世に
生を持つことの意味、とは
一体、何なのでしょうか、
子どもは、あなたを選んで、
生まれて、きます。
あなたが、ひととして 限られた
時間を生きるなかで、
さずけられた、テーマ、とは、一体
何なのでしょうか、
それを、教えてくれるのが
あなたの 子どもたち、
なのでは ないのですか
ひとりひとりの特性により
与えられているテーマは
ことなります、
なすべき こと、とは
あなたが 生きて、生活を
しているなかで、既に与えられて
いるでは ないですか。
まわりの 人たちの はたらきを見て、
あなたが同じことをする必要など
一体、どこに存在しているのでしょう
100人の人間が いるならば
100通りの役割が、与えられている。
ほかのひとには 与えられておらず、
あなたの特性に合わせたかたちで
与えられている役割、とは、
一体、何なのですか。
あなたのなかで、
時間がないと訴えて、
焦りや恐怖を与えるもの、とは
一体、何なのですか
それらが、光へ進もうとするものを、
引きとどめ、抑止をしようと
しているものなのです。
自らの内にもあり、外にも、あります。
それらのしくみを知るために、
あなたは精神学というものを
学んでいるのでは ないのですか
たび重なる 不幸や重圧というものは、
その人間の持つ信仰というものを
放棄させるために
活性化します。
それらは鏡の役割を持ち、
表裏の関係で、あなたの意識に
影響を与え続けます。
ある程度の負荷というものが
かけられたとき、
ひとは2通りの選択をしようとします。
逃げ出して放棄をするか、
立ち向かい、じっと見すえて、たたかうか。
今、あなたが いる位置から
降りますか、それとも、上に 昇りますか、
その、どちらか、でしか、ありません。
どちらか、なのです
社会の中で、ひとの働きによって
必ず派生する ひとの闇というものを
処理するために、精神学を学ぶものも
あり、家族間の闇と、たたかっているものも
あり、様々な状況と環境のなかで、
日々与えられ続けるそれらの闇と
たたかうために、精神学というものは
用意が、されているのです。
八百屋さんには、建築設計士の仕事は
出来ません。
そのしくみは、もう、
おわかりのことのはず、
ひとが 生きて活動するうえで、
必ず、何らかの闇のエネルギーと
いうものは発生します。
処理する能力を携えるために、
用意が、なされているものを、
あなたは自らの意志で選択した
それだけのことなのです。
自らを信じること、
それを、決して手離さないこと。
“意志である”といい続けていることの
意味を、
どうか、わすれないで、いて下さい。
通信-08年6月6日
Friday, June 6, 2008, 21:02
(2008.6.6 pm3:23受)
みかどの ひの たゆること
たゆる もれゆる こと なきよう
つながりは はてることなき
みちゆへに
あるじは あるべきところに
おさまるよう
ききり くくりた つながりを
むける ほこさき いくつかの
わかゆる みちの そのさきに
みゆる ものとは
いかなるもの と
つながりの はて
さきの よつぎの ものなるか
はたまた とぎれた みちなるか
なにゆえの ものたるか
たりえるものと なりえるか
ししん(私心)を ししん(指針)と
したならば
さりゆくものと なりうるものに
えるものと たりうるものは
かみひとえ
こんよのうちに
つなぐるか
あるいは さきの ものたるか
みずから の やくわりと
こんよの やくめは なにたるか
とらわれる ことのなきよう
うけたまひ ひきつぐやくめを
おうものは
いかに このよを まっとうし
つぎの よつぎの やくわりを
まつことのなき
はてるなき
みちをみちとの みちしるべ(道?未知?満?)
あらわされたる
すがたみを
いかに つくろい ぬいあわせ
かたちなるものされるかを
こんよに きめぬる ものなるか
おくびに ださぬ そのすがた
みちのあらわしは いかのもの
なにゆへの もの たるのかを
きき しり みちを つけるみは
ゆへんの ゆへの
みすがたに なり
もとの うけひは なにたるか
うけひ うけおう そのみの ゆへん
かたびきの そのち ゆへ
ちゆへ ちのゆへ つなぐ み ち
いんの はえたる
そのち ゆへ
ちのつながりの
あしひきを
うごかし たまひ
つなぎ うる
もとの ゆへんは なにゆへに
いかし つなぐる やくわりは
みち(未知?道?)のちのゆへ
さしちがふ ことの なきよう
あたへられたる やくわりは
のりこへ へたのち くるものと
しらせ たらるる ものありき
通信-08年6月1日
Monday, June 2, 2008, 13:25
(2008.6.1 pm8:08受)
今、存在している、闇の、あるいはマイナスのエネルギーが、
永久に続くのではないか、という恐怖。
あるいは、次は、もっと大変なことが起こるのではないか、
という、目に見えない強迫のようなもの。
それらが、頭の中に占領をしている状況というのは、お察しします。
第3者である限り、その状況は、外から客観的に見ることが出来、
どのように対処をすべきなのかを冷静に考えることが出来ます。
しかし、当人が、その当事者になっている場合、
不安と恐怖の中に陥れられます。
何かの原因があるはずなのに、それが見つけられない。
そうすると、自分のせいなのではないかという、
ひとつのこたえが浮かんできます。
そのこたえは、あなたの頭を占領し、
あたかも、それが正しいこたえであるかのような主張をしだします。
目に見えないそのものは、そのように、
あなた自身の問題であり責任であるという主張をするのです。
その先にどのような状況が待っていると思われますか。
俗に言う、「うつ病」というものです。
閉鎖的な考え方になり、すべての責任は
自分にあるのだという結果に、おさまろうとします。
それで、敗北宣言を出させるために、
それらのものは、はたらきます。
あきらめて放棄をするのを、待っているからです。
何が、あなたを、そうさせようとしているのかを、
本当に、冷たく、あるいは冷静に、見据えなければならないのです。
正義の意志を持って、はたらくものを、ひきずり降ろそうとする、
あるいは、そのものに、すがりつき、ぶらさがろうとするもの、
もしくは、エネルギー体とは、一体、何ものなのでしょうか。
あなたを妬み、ひきずり降ろそうとするものなのか、
もしくは助けを求めてすがりつき、ぶらさがろうとするものなのか。
そういった、負荷、というものが、あなたとあなたの家族に、かかっています。
やみは、ひかりのあるところに集まってきます。
それらを、とらわれることなく、常に冷静に判断し、
対処をしてゆく能力が、今、あなたに求められています。
負荷は、その人間が耐えられる
ギリギリのところまでしか与えられません。
逆に言うならば、許容量やポテンシャルの高い人間には、
それなりの課題というものが、持ち込まれ
与えられることになるのです。
あなたをつぶす為に、かせられるのではなく、
あなたが次のステージに進むための
試験であると、考えてください。
できないひとには課せられません。
できるという判断のうえで
与えられていることに、気付いてください。
それが、正しい、こたえです。
じぶんばかりが、負わされていると
思っていては、いけません。
もっと過酷な状況で、それを背負っているものも、いる。
下(しも)のものほど、口汚く文句や、ぐちを言い、
そうでは、ないものほど、
だまって、それらの処理をしている。
なぜ、それらの理不尽とも思える扱いに、
耐えうることが出来るのか、
その、こたえは、
審判、というものが、あるからです。
ちゃんと、ほんとうのことだけが、
たましいに刻まれている、ということを知っているから、
耐えうることが、できるのです。
そのルールというものは、厳然たるしくみのもとに、
きちんと、正しく置かれている。
どうして、このような不遇な目に遭わされるのか、という疑問のこたえは、
そこに明確に、あらわされているのです。
それが、できると、しるされているものに
与えられているだけのこと。
すべては、物語にすぎない。
おそれることなく、進みなさい。
と伝えている意味を、常に、どこかに
記しておいてください。
あなたがその意味を知り、前を見て
歩いてゆく日が訪れることを、
私は知っているからです。