通信-07年6月17日-2
Thursday, June 21, 2007, 17:14
(2007.6.17 pm10受)
おかねを支払っているのだから
何かしらの見返りを受け取って
当然でしょう、という思いが
蔓延している
つらいことは背負いたくは
ないけれど
自らにとっての成功するチャンスは
欲しい、ということ
その結果を得るために
自分にとっては苦しく
つらく厳しい道を歩む
という実体験は、踏みたく
ないからである
いいところだけ取って、嫌いな
食べ物には、見向きもしないどころか
はじめから、無いものに
したいからである
きびしく、つらいその実体験を
乗り越えた先にしか
未来は用意されていないのに
そのことすらさえも、
はじめから 見たくは ないのである
今の時代の若者のほとんどが
努力や苦労というものに
はじめから かかわることもなく
成功だけを手に入れたいと
願っている。その願いをきき入れて
もらいたいがために
神社や仏閣にお願いをしに
行く、そこに、それが恥ずかしいこと
だという概念は存在していない
自分だけが楽をして富や成功を
得るために 祈りというものを
すりかえて、お願い事を、せっせと
植え付けに行っている
もともとは 聖なる地、といわれていた
場所が こうやって汚されて
ひとの思いに汚染をされているという
道理が わかりませんか
いつになったら人間は理解をするのか、
いつまで、あなたたちに
我慢しておられようか、ということばが
一体何を、訴えているのか
まだ、わかりませんか
にこにこと快適に、楽しいことだけを
見ながら 自分が成功するために
用意をされている人生だとでも
思っているのですか
わたしが しつこく、“時間が無い”と
言い続けている意味が、まだ
わかりませんか、
世に知らしめるべきことが一体何で
あるのかを、気付かない限り
目が覚めた、とは言えないのです
発信し続けていることばの意味を
自分にとっての都合のよい内容に
書き換えては いませんか
これを言ったら この人間は
ひしゃげてつぶれてしまったまま
立ち直れない敷居というものを
どれだけ低く下げて話をしているのか
どうやら、わかっては いないようですね
レベルの高い人間には
レベルの高い敷居を 設けます
低い人間には
それなりの レベルに合わせて
敷居を 設けます
ただ、それだけのことです
すこしでも 自分が成長し
次のレベルへ進もうという
意志のないものに
いつまでも つき合っているつもりは
ありません
わたし自身の時間が
無いからです
解決しなければならない
苦難を抱えながら
自分自身の為(な)すべきことに対して
必死になって努力をする
そのことに対してのみ
結果は、かたちとなり
あらわれ、かえってくることに
なります
厳しい言い方をするようですが
苦しく追いつめられた状況下の
なかででも、何かを生み出そうという
意志のないものに
用は ありません
これがあったから出来なかったのだ
ということばは、単にいい訳でしか
ないからです
石にかじりついてでもやろうという
意志があるのかないのか
何らかの要因で それを完遂することが
出来なかった時に
その理由を、足止めされたものの
せいにしてしまえば
自分自身の責任ではないという
言い逃れが出来ることを
知っているからです
自らのおこないや行動
口から発することばの
ひとつひとつに責任を持てるようになって
はじめて、大人になる
ということが出来るのです。
アタマの中が幼児のまま、年齢だけを
積み重ねた人間が、この国に
どれほど いるのか
その人間が 齢(よわい)を重ね、老人に
なった時、どのような事態が
待っているのか、想像できませんか
わがままで、何でも他人のせいにして
そのくせ 感情のコントロールがきかない
そんな老人が 大多数の割合を占める
このクニに
一体、何の希望が抱けると
いうのでしょう
これから生まれてくる子どもたちは
過酷です。はじめから その負債を
負わされて生まれてくるからです
多くの人間は、自分が死んだ後は
何も残りはしないと思っています。
生きて生活してきた間につくり上げた
負債は一体どうするつもりなのでしょう
それがイコール
自分さえよければ
それでいいではないか、という考えが
蔓延している世の中なのです
責任を取る、という概念が全く
確立していないのは
はなから責任を取るなどという
行為をしたくはないし
するつもりも ないからです
要するに、自分が満足して
死ねればよいと思っているからです
その満足、というものが
一生懸命努力をし 苦労を重ねながら
やっと成し得た満足なのか
自分が願い希望し、かなえられたら
いいなと思いながら得た満足なのか
その質というものが
根本的に異なる 別質のもので
あるということに
気付きませんか
どのような悲しい事態に陥ったとしても
放棄することなく、手放さないで
継続し続ける、ということ
どのような過酷な苦難を強いられることに
なったとしても、決して
それを あきらめないということ
世の人びとに認められ
賛称される作品というものは
そういった過程をふまえた結果
もたらされるものです
結果物をひとめ見れば
それがどのような経過ののちに
生み出されたものなのか
瞬時に判断できるとは
そういうことです
苦難とは その人間を地獄に
落とすために あるものではなく
それを乗り越えた先にあるものを
手にいれるために存在している
必然性のある
ワンセットのものです
あなたが それを成し得るために
費やした時間と苦労は
必ず結果となり 作品に
あらわれます
それが 正しい理屈というもの
です。
通信-07年6月17日-1
Thursday, June 21, 2007, 17:13
(2007.6.17 pm3:15受)
聞いたはなしによると
能力のないものが
立ち入ると、影響を受け
その存在のかたちを乗っ取られて
しまうとか
安易な気持ちで興味を持ったばかりに
色々と余計な土産物をくっつけて
帰ってくることに
なります
処理する能力のないものが
安易にその場を訪れ興味を持つと
必ず その場に存在する
データを引き受け 負わされることに
なります。普通に生活をしている
ひとたちは そういったつながりを
持ちたいが為に、神社仏閣という
所に足を運びます
恩恵を授けて欲しいから です
自らに関係のないデータや
エネルギーまで
かき集めて背負い込み
そのあと、どうするつもり
なのでしょう
皆、自分にとっての都合のよい
ご利益というものを求めている
ようなのですが 残念ながら、
かつて存在をしていたデータというものは
はたすことの出来なかった“責任”という
ものが大半を占めた
巨大な負のデータでしか ありません
あなたが それを背負い、日常生活を
しながら、責任を果たしてゆけますか
興味を持ち、かかわる ということは
そういう結果を もたらします
多くのひと達が エネルギースポット
などとして紹介されている地場へと
足を運びます。自らが何らかの
エネルギーのようなものを感知し
得てみたいと思っているからです
そういった場に、一体何が腰をおろして
へばり着くように存在しているのか
わかりませんか
千とも、万ともいえる人間の
自分個人の思いや願いが
こびりついて集合し、巨大な
かたまりとなって いるだけです
ひとの思いや願い、というものは
たとえ、そこが本来の風土における
聖地であったとしても、
そこを汚染し けがれたものにすることが
たやすいぐらい、強力なエネルギーを
生み出す ものなのです
皆、有難がってその地を訪れ
更に自らの思いや願望を
植え付けて 帰ってゆくのです
そのしくみを 社の宮司というものは
知らずに、自らが、その大いなる
エネルギーを、保持し、管理しているもの、
との勘違いをしている。それだけなら
まだしも、その場を訪れる人達の
上位における位置に、自らが、いるもの、という、
甚だしいほどの錯覚を
たずさえているものが 多いのです
ひとの思いの寄り集まりに
汚染をされて、本来、聖なる
場であるとされてきた区域は
黒い、ひとの闇に覆われている
というのが事実です
ひとりひとりが その場に出かけるのは
自由ですが、そのしくみを理解して
いないと 何千、何万もの人間が、
弓矢のごとく突き刺し、植え付けてきた
思いや願いの黒いエネルギーの影響を
受けることになります
聖地である、あるいは神聖な場である
という紹介のされ方をされただけで
多くの人間が、その地を訪れる
何を求めて、その地へ行くのか
わかっていない者というのは
更に、より大きなものを求めて
足を運ぶことになる
そうやって人間社会における、
自分自身のはたらきや役割という
ものから はるか離れた 自分だけの
理想郷というものを求めて、
足を踏み外してゆくものが、
ほとんどであるということに
自分自身は気付かない、という
状況をもたらすことに、なる
ゴミ拾いをしに行き、わざわざ
自分で背負い込みたいのであれば
自分自身の責任の範囲内で行うのも
自由なのですが
かき集めてきて処理できないものが
結果、どこへ行くのかを
いちど、考えてみてください、
自らが焼却炉と、なりなさい
と言っているのであって、ゴミ集積車に
なっていては、いけません
おわかりですか
その責任を知ろうとしないものが
神社仏閣や、パワースポットなどと
言われている場所へ
行きたがる、というのが
事実とだけ言っておきます
興味を持ったら、つながる、とは
そういうことです