<第三章>その十

第三章 人間は審判の容器ということ

その十)仏教、一神教、科学という宇宙認識

量子論が出て、宇宙への認識は、約二千五百年前にブッダと呼ばれることになる人間の到達点が、それなりに正しかったらしい、と推測できるようになりました。人間の意識が、宇宙を正しく認識できるようになった後に、イエスの十字架という事件が起き、一神教の時代に突入します。そして、その一神教から出た科学というものが、一神教が生み出した全知全能の神というものを否定して、人間の世界は無神論のイデオロギーというもので運営されることになったのです。二十世紀までの人知では、このまま、この宇宙には神の座はないものだと考えるのが普通だったのですが、物質が、観察者としての人間の意識を感知して、姿を変えるという観測結果の前に、一神教の神ではない、この宇宙のエネルギーのもとのもとたるものが意識のようなものを持つことを否定できなくなったのです。これがミクロをつき詰めていった素粒子論の立場で、その先には、宇宙の開闢の前というものまで考えようとする人間意識の拡大があります。この一連の流れを、あっさりと説明してしまったのが、「最終知識」という書であり、現行の人間中心の宇宙は、人間のたましいのもとたる神の物語を完成させるステージとして、用意されたものだということになります。その一神教の神の物語が終わることで、宇宙は本当の姿を現すことが可能になるのです。

(つづく…)

二千二十三年 二月十七日 積哲夫 記