<第一章>その九

第一章 試練は、学び、ということについて

その九)自我の因果

人間というものは、自分というものを、社会的動物として生存するように、自己教育していくシステムを、本能としては持っていると考えられます。自我というものが、自分と他者の差異を認めるところから形成されていくのは、その意味で、当然のことなのです。それを、意識という面での成長で見ると、たとえば、母の体内で育っている段階は、完全な充足で、レベル的には神のようなもの。それが、この世に生まれて、母の母乳で生育する段階は、王様のようなもの、と考えることもできるでしょう。人間が、母の体内で、過去の生物の進化を追体験しつつ成長するということは、この世に出るまでは、神のたくらみを学んでいるともいえるのです。それが、この世に出たとたんに、その地位は、せいぜい王様にまで下落して、その後は、どんどん、地位を下げつつ大人への道を歩むのです。この段階で、生まれてきてしまった自分の地位の低下を、正当に受けとめるプロセス、別ないい方をするとしつけを、体験しないと、何が起きるか、ということです。神や王様のままでいたい自分の存在を、否定も肯定もできないまま、身体的には成長してしまうことになります。それが、ほとんどの場合、コモリやコボレの出発点にあります。やっかいなのは、人間の自我の出発点には、自覚のない神的意識があるということなのです。

(つづく…)

二千二十二年 九月二十三日 積哲夫 記