『神を超えよ! 仏を超えよ! 積哲夫の言葉【一の巻】』の紹介記事 その⑥

今回も、シンショ・シリーズの新刊本の内容紹介をいたします。

出版作業の方は、印刷段階の手前に行う最終校正チェックになっております。

もう少しで、皆さんのお手元に届けられると思うと、私もワクワクいたします。

———–以下抜粋—【第二十二回】から

何田 たましいは光五十パーセント、闇五十パーセントで生まれて来ます。その後人生を生きて死ぬまでの間に光二十パーセント、闇八十パーセントならばどうなるでしょうか。

 死んだ時にたましいに光が多ければ光の世界の道筋に乗れるし、闇が多ければ闇の世界へ行きます。それでさよならです。残念でした。さようならです。今の日本人は人間として生まれるのは最後だからこれで終わりです。

何田 たましいの何が光で、何が闇なのかという議論にはならないでしょうか。

 なりませんね。生きている間も死んだ時も、どの時点でもこの宇宙の創造の意志とでもいうべきものに一体化し、私(自分)というものがなくなれば、たましいは光の道筋に乗ります。しかし、ほとんどの人は、私がなくせないから、光の世界に上がれません。皆さんそこを目指してきたのにね。何田さんの質問は過去の宗教にこだわっています。幸せは何ですか、といっているようなものです。幸せなんて人間が幸せと思ったら幸せなのです。そう思う時は人生に何度もありますね。不幸も同じように何度も訪れますが、そんなものが永遠に続くわけがありません。自分の思い通りにならないのが人生です。宗教的な問題と、精神学の問題と分けて考えてください。精神学は宗教ではありません。宗教を終わらせるために精神学があります。宗教的疑問を解決したかったら、最終知識を読んでください。そこに答えが書いてあります。

積 哲夫の覚醒後の段階として、次の三つがあります。

・千九百九十一年から二千年までは最終知識完成の段階

・二千一年から二千十五年までは日本列島、もしくは日本人を覚醒させる段階

・二千十六年からの新しい時代の段階

今はこの第三の段階に入っています。

精神学を学んでいないすべての人は千九百九十年以前の過去の知識しかないのです。千九百九十年以前のそこにある過去の知識を駆使して、あーでもない、こーでもないと右往左往しているだけなのです。もう時代は進んでいるのです。何田さんの質問は宗教がテーマにしてきたものを再び持ち出していると気がつきませんか。

何田 はい、わかりました。気がつきました。昔の時代の宗教の問題でした。

 何田さんが一番知りたかったのは、「人は何のために生まれるのですか」というお話でしょう。それに対して、たとえばブッダは自分なりの答えを出しました。ブッダが出した内容は、最終知識に掲載されています。ただ、仏教でご飯を食べている人は、これを受け入れがたいはずです。なぜでしょうか。いくら修行しても、自分はブッダのところまで行けないからです。ブッダはいわれています。修行はいらないよって。修行はいらないのです。時がくれば、皆さん、わかるようになります、と。

イエスも同じです。イエスは十字架上で「神よ、神よ、なぜ私を見捨て給うのですか?」といわれています。それは、イエスはその時まで、やることをやったから自分は救われると思っていたのですよ。でも救われなかった。結局、ブッダの悟られた「時がきます。それまで待ちなさい」が真実なのです。

———–抜粋終わり—–

「私(自分)というものがなくなる」という現象が、たましいが光の道筋に乗っている状態だそうです。

つまりは自分のことだけを考える、自分の利益(得)だけを考えるという状態から、世界全体、人類全体のことまで視野に入れて思考できるようになり、最善の方法は何であるのかを知る人は『光の道筋を歩む人』なのです。

この到達点に至るまでには、過去の自分の黒歴史を直視する必要性があります。自分の人生のテーマが理解でき、それを知識という理解に変換すれば、自分という小さな者に執着する必要もなくなります。でも、ありのままの自分を直視できずに、不遇を人のせいにする人がほとんどです。

自分のことがわかっていないから、人間は自分自身のことに執着するのですね。自分を境界線にしてしまえば、そこから先へは意識は広がっていきません。

日戸 乃子(ひとのこ)