調理器具や手法による味覚への影響と波動

今回は、私の個人的な感覚を書きます。

これが正しいかどうかはわかりませんし、間違っている可能性も多分にあります。

皆さんからすると、ひょっとしたら訳の分からないことを書いているかもしれませんが、私が子供のころから感じていた違和感を、少し書いていきます。

 

料理をする際に「何を使うか」というのは、味覚や知覚に非常に大きな影響を与えると考えています。

 

庖丁を使って切るのか、手で裂くのか、叩いて割るのか

火で長時間かけて煮こむのか、圧力鍋を使って短時間で煮こむのか、電子レンジで一気に過熱するのか

 

私は子供の頃、「包丁で切ったトマト」が食べられませんでした。しかし「手で裂いたトマト」や「丸かじり」だったら喜んで一玉食べていました。似たようなもので、好物のきゅうりは「包丁で切ったきゅうり」も食べましたが、それ以上に「たたききゅうり」や「丸かじり」を好んでいました。

魚も切り身よりも丸魚を好む、珍しい子供でした。

大人になって冷静にそれを分析した時に、庖丁という金物を通すことで、食材に金っ気が付くような、口の中に感じる違和感を嫌っていたのだと理解しました。

 

同様に、子供の頃は、電子レンジにかけた食品を嫌っていました。

その最たるものは牛乳。

牛乳をレンジにかけるとあっという間に温まり、鍋も洗う必要もなかったため、家族は好んで使っていましたが、私だけは鍋で温めたものでないと、勿体ないと怒られていても、口をつけたくなかったのです。

何故かと問われても、子供の頃は答えようがありませんでした。表現する言葉を知らないのです。

とにかく鍋で温めた牛乳とは何かが違う。キモチワルイ。飲みたくない。

 

そして大人になって感じたものが、圧力鍋で煮た(炊いた)ものと、鍋で長時間かけて煮こんだ(炊いた)ものの違いです。

どちらもほろほろ、柔らかくするために使っても、圧力鍋で煮た(炊いた)ものは、何故かほろほろであっても「硬い」と感じます。

肉の繊維は解れる、野菜は崩れる。だけど、お鍋で時間をかけて煮た(炊いた)ものとは本質的な何かが違う、と感じます。

棘があるわけでもなければ、味の変化が大きくあるわけでもありません。だけれども、確かに違うものを纏っています。

この違いを考えたときに、「圧力と調和」という言葉が浮かびました。圧力は力でもって無理やりに従わせるもの。調和は全体が馴染み調うもの。日本的な考え方だと、恐らく圧力をかけたものというのは合わないのでしょう。

 

ひょっとしたらこれが食の波動の一つなのかもしれません。

 

普段、日常の食卓で、自分が口にしているものは何か。

それはどのように作られて、どのように調理されているのか。

誰が、どのような想いで作っているのか。

 

それは、恐らく、食べる人に大きな影響をもたらします。

自らの意志で身体の内に取り入れ、それが自分の血肉となり、自らを形成する一部となるからです。

 

自分が何を食べるのか、何を選ぶのか、その選択の根底にあるものは何でしょう。

知って選ぶことと知らずに選ぶことは意味が違います。

 

 

よくわからないなという人も、意識して食べ比べてみると、違いが分かるかもしれませんね。