精神学の立場では、一神教の神のエネルギーは、いまの地球の人間のたましいのもとになっています。人間の精神活動においては、常に光と闇が半々の関係で、物語を進行させているのですが、それが一神教の神というもののエネルギーの正体だというのが、私の知るところです。あと一歩、光の側へふみ出す人間の意志が、この世の問題を知り、解決するためには、どうしても必要なのです。その一歩のための光は、たぶん、人間として生まれるという契約の時に、授けられたものです。神が神のままでは、光が半分、闇が半分で、光の勝利はないのです。人間を神の容器とするために、神々の時代があり、その時代に神とは無縁のブッダが世に出て、神の知を超えて、この宇宙の本質を理解したところで、そこにいたインドの神々の多くは、ブッダの弟子になったというのが、精神学協会に伝えられている仏教の本質なのです。神の問題を解決するためには、人間の身体が必要だと分って、一神教の神は、イエスを神の子として、この世に降ろしたのです。その結果が、当時のエルサレムを支配していた神殿のマネーをコントロールしていた人間グループに主導された十字架だったのです。