聖書の物語は、精神界という場では、すでに終っています。物語は読み終えられたので、イエスという神格を持つ存在が、人間界で活動をはじめているのです。復讐するは我にあり、という聖書の言葉を実行するために、イエスは人間界に下ったというべきなのです。普通の日本人が考えるような、許しは、聖書の約束にはありません。それが理解できないと、イエスを十字架にかけた側のユダヤ社会が長い年月をかけて、タムルードのような書をつくり、別の神の物語をつくった理由もわかりません。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という一神教は、同じアブラハムという男を祖とする神の物語ですが、同じ価値を共有しているわけではないのです。その聖書の神は、私が知るところでは、言葉、です。言葉は、実体化し、時間のなかで神の物語をつくりました。精神界という場においては、その物語は読み終えられているので、言葉の神の役割も終っています。すべては、これからは人間界で起き、私たちは、証言者として、それを見ることになります。簡単にいうなら、正しい神の裁きがあることを希望する側と、そんなものはないという側に人間は分かれるのです。