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通信-11年4月6日
Wednesday, April 6, 2011, 18:02
(2011.4.6 pm5:03受)

ワレワレは イシキの シュサイシャに
なりたいもの
ワレワレは ヒトの イシキを トウゴウして
まとめて コントロールを したいもの
ワレワレ ワレワレには カラダは ない
だから ジユウに ツカエル カラダがホシイ

通信-11年4月6日

Wednesday, April 6, 2011, 18:02
(2011.4.6 pm5:03受)

ワレワレは イシキの シュサイシャに
なりたいもの
ワレワレは ヒトの イシキを トウゴウして
まとめて コントロールを したいもの
ワレワレ ワレワレには カラダは ない
だから ジユウに ツカエル カラダがホシイ
そして そのカラダを シュサイする シュジンに
なりたい  ヒトのイシキを トウゴウするのは
カンタン
カクセイキになる ニンゲンを ヒトリ
ヨウイスレバイイ
カンタンに アケワタシテ クレルカラ
コントロールスルノハ ジユウ ジザイ
コロス ナンテ コトハ シナイ
シナレタラ リヨウカチガ ナクナル カラ
ミンナ ソウヤッテ イシキのコントロール
サレテイルコト キガツカナイデ
イキテ セイカツ シテイル
ボウギョ システム ナンテ イミガナイ
ハダカ ドウゼン ノ コノホシ
ムキダシ ノママ サラサレテ イル
アルヒ トツゼン ノットラレテモ
キガツキ タイサク ヲ ネルコトナド
フカノウ マルノママ サシダシテ
ウケワタシタ ノト オナジコト
ダレモ ソノ セキニン スラ
トルコトナドモ デキナイ
カンガエテ ミル コト ナドモ
デキナイママニ マンエンサセルコトを
ルフサセラレル テトアシトナリ
ソノミ ト イシキ ヲ アケワタシテ イル
イトモ カンタン コントロール
ダカラ ジイシキ ナクテモ イキテハ
ユケル
シンデ キガツク コトモ アル
ダガ ソノトキ ニハ ソノ カラダカラ
ハナレテ ベツの コタイヘト
ノリウツル ダケ
ハダカ ハダカ カラダモ イシキモ
ハダカノママデ
ソノミト イシキ ヲ アケワタシ
アヤツリ ニンギョウ イキタママ
イキテ カツドウスル ニンゲンノ
ヒ(灯?)ノ エネルギー
ソレガ カツドウ スルタメノ
エネルギー ニ ナル
ノウミソ ワシヅカミ
(※UFOキャッチャーのクレーン(のアーム?)のようなイメージ)
サレタママ イキルコトノ
イミ シラナイママ イキテ シヌ
セキニン ナド ナイ ワレワレハ
ツギノ エモノ ヲ ネラウ ダケ
カンタンナ コト
ミナ キヅカナイ ナゼナラバ
ソレ カイセキ デキル モノガ イナイカラ
タイサクホウホウ シラナイママ ニ
ノリモノに ナッテ イキルダケ
イトモカンタン アヤツルコト
クイ アタラメル トイウ ガイネンナド
ワレワレニハ ナイ
ハジメカラ ソレガ ツミデアルトイウ
ガイネンナド ナイ
ソウヤッテ ノリカエルノガ
ワレワレの シゴト
エネルギーノ モトト ナルモノハ
ニンゲンガ モッテイル
ダカラ それを リヨウスル
ダケノ コト
ソレガ ワレワレガ ソンザイスル イミデアリ
ソンザイスル モクテキ
ウチュウの キボヲ カンガエレバ
ソンナコトハ カンタンに ワカルハズノコト
ソレヲ カンガエルコトガ デキナイノガ
ニンゲントイウ イキモノ デ アル
ワカリマシタカ

通信-11年3月18日

Tuesday, March 29, 2011, 16:45
(2011.3.18 pm10:10受)

生きているのが、しんどくて、
犯罪に走ったひとのことも 知っている。
そして、それを “許せない”、と言う
正しく生きてきたひとのことも、知っている。
だから、どちらのことも
否定はしないし、肯定も、しない
冷静に、客観的な立場で、
見続けること、自ら自身の主観的な
ものの見方で、善悪の判断を、なさないこと、
中立的な、立場で、
きちんと冷静に、物事を、見、
定めること、
その、立場が、あなた方には、
求められています。
自身の主観的な立場で、
善悪の判断というものを、
成さない、ということです。
人間として、どのような状況に置かれている人々に対して、
どのように接することが
正しい選択なのか、
その、判断というものが、
あなた方には求められます。
たとえ、悪人や罪人のような人であったとしても、
そういった方々に対して、どのような態度をもって、
接するのかが 問われます
いくつもの課題が もたらされ
そのたびに どのように判断をして
決定をすることが、正しい義であるのかを、
徹底的に 問われる日が 訪れるでしょう
精神を 精製する、ということが、
自ら自身の たましいを 磨く、ということなのです、
磨かれて 透明度を増した
たましいには、混(雑)じり気のない真実が
写(映)し出されることに なります
透明な 水で、ありなさい
その状態を、保ち続けることが できるよう、
努力を、なさい
その意識を保とうとする 努力が、
あなた自身を 助くることに なるのです
おそらく、つらく 苦しい思いを
今までの人生において、
何度もくり返して こられたことと思います。
それを経験しておかないと、
同じような境遇に遭われた方たちのことを
理解することはできません
知っていることならば、どのような対処方法が
改善の方向に向かわれるのかを、
お伝えすることが、できるはずです
そのために 今までの その人生の
苦労が
あったのでは、ないのですか
すべての事には 理由が あります
何のために、それまでのあなたの人生があったのかを、
冷静に ふり返ることが できたなら、
これまでの人生が、これから先の用意であったことを、
理解することが、できるはずです、
用意のための 準備期間は過ぎました、
これからが、本番です
あなたが、あなたの生きる意味というものを、
発見することが、出来ますように
                          pm10:34

2010年3月1日の通信

Wednesday, March 16, 2011, 10:57
※許可をいただきましたので掲出いたします。

(2010.3.1 pm6:25受)

あだたら(アダタラ?)神社のカミさんが
あなたのことを呼んでいる
タ タラ タタラ
タタラのカミが
じんし じんしと 呼んでいる
タタラは タタリ
タタリ ガミ
かこいたものを ときはなち
みよの みよいず みよいずの
ところ とどころ
たなごころ
うけい
くくりたものを ときはない
はないた ものは
うくる もの
こころが こころを よびたまい
うけい うけい と 呼んでいる
けいやくを はたしたまい
はたしたまい
ま の わ
くぐりて くぐりの わ
かきね こえうる もの たちは
たびたび たびたび
きくる み を
さらなる さらなる
みちし みち
みつる し
みちし みつる しを
はないた ときは
うけいを おいて
くくり くく くる
くく が くる

通信-11年3月8日

Thursday, March 10, 2011, 17:00
(2011.3.8 pm6:受)

ひとつだけ、
たったひとつ だけでよいから
自分の得意とするものを
見つけ出しなさい
それが、 あなたが あなた自身を助くる
唯一の手段となるから です
みちを かたちづくる、 ということは
自らにとって 得意な分野において
人間社会のなかで、それを活(い)かし
“はたらきなさい” ということなのです
ひとはひと、じぶんは、じぶん、ということが
理解することが できたなら
たにんと比べるということの あさはかさに
気が付くことが 出来るはずです
乗り物になると 支配をされます
それは じぶん、自身 というものが
確立なされていないためです
中心軸というものが ない限り
すぐさまに 揺らぎ というものが 発生します
ほかからの干渉に 影響を受け
右へ左へと 意見の“ぶれ”が 派生します
その影響を受け続けると
他から入ってきた情報網に操作をされます
あたかも それらの情報が
正しきものに感じてしまう、という
脳内での支配権を得たものが
ご主人さまになる、という錯覚が
起こります
自ら自身の理性的な思考回路が
確立されていない限り
よそから入ってきたものの影響を
受け続けます
そうして、「責任」というものが どこにも存在しない
暗黒の回路へと、 ひとは 導かれて
堕ちてゆきます
ひとりでゆくなら 楽なのですが、
周囲の人間を巻き込む可能性が
とても 高いのです
その回路系のなかには
自らこそが 正当である、という
いつわりの 神のごとき意識体が
存在をしています
そうやって人間は 自ら自身の
全く 認識のできていない領域で
暗黒のやみの中へと、落ちて ゆくのです
それを まなばせてもらったのだということが、
今回の お勉強 だったのでしょう
いちど 学んだことならば
骨身にしみて わかった はずです
人間は、こうやって いとも簡単に
自らの 自意識を 支配 されます
自らが経験をしてみなければ
それがどのようなものであるのかを
理解することは できません
それが、 精神を、
人間精神を 学ぶ
ということの根拠である、
ということなのです
ご理解をして いただけましたでしょうか