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通信-09年6月15日
Monday, June 15, 2009, 13:30
(2009.6.15 am9:00受)

欲望の危機状態が
もたらす作用
おカネであり権力であり性であり
手に入れたくも 手に入らないものを
現実のものにかえようとするはたらきが
脳のなかでつくられ続ける

通信-09年6月15日

Monday, June 15, 2009, 13:30
(2009.6.15 am9:00受)

欲望の危機状態が
もたらす作用
おカネであり権力であり性であり
手に入れたくも 手に入らないものを
現実のものにかえようとするはたらきが
脳のなかでつくられ続ける
ある種のコダイモウソウ(誇大妄想)と呼ばれているものが、
それらの脳のなかで拡大再生産を続けることで、
それを現実化させようとする作用が
頭のなかで生まれる
にんげんのつくり出した おもいのエネルギーを
現実化させようとするはたらき、
あるいは、人的能力、というもの
拡大再生産をされた、それらの脳のなかで
つくられ続けた お話は、
それらをより現実に近しいものへと
発展をさせようとする相互作用がはたらき、
それらが脳内で構築がなされるお話である限り、
どのような内容のものでも 頭の中では
手に入る、という、いわばバーチャル
リアリティ的な 効果や作用というものが
その意識領域内で 発生し続けることになる、
より、具現化し、より、リアリティを持たすため、
それらは細部に到るまで
きめ細やかな描写を伴なうものとして
いともたやすく その人間の脳内で
つむぎ出されて構築をし続けることになる、
もし お金が 有ったなら、こういった事を
現実のものとすることが 可能になるに違いない、
という、ある種の夢物語のような、お話は、
それらの欲望のレベルによりけりだが、
その人間の脳内で
それらを実現化させようというはたらきが生まれ、
それらが、より可能な
手の届きやすいものであるに違いない
という思い込みから、話は、つむがれ続けてゆくことになる
それらの、おもいの現実化、というものが、
どの目的や方向性を持っているのかによって、
現実世界での物質存在として
もたらされるものが 何なのかを、
キテイすることになる
おカネであり 権力であり 性であり
どれもが人間の欲望と直結して存在をする
願望の類(たぐい)である、 具体的に、それらを
手に入れる為には どういった手段をふまえて、
どのようにはたらき動くのかを 現実的に、かつ
論(倫)理的に思考をするのではなく、
おもいのちから、エネルギーにより、それらの
実現化を達遂(成?)させようとはたらきかけるものが
その人間存在のなかに閉ざされていることに
気付くものは少ない、つまり、一建の家屋を
構築するために、基礎工事から初めて、
どういった建材を どのように取り扱うか、
建築物が構築されてから、その後は
どのように耐久性を維持させることが
出来るか等、ひとつひとつの項目をつくり上げてゆく
シミュレートを、行なうという時間と手間のかかる
作業を、怠(おこた)り、思いのちからで、
手に入れたいと より強く願うものを
現実の世界で手にする為に、にんげん、という種の
生き物は、いとも簡単に、それらのおもいの
エネルギーを、拡大総生産する為に、
その脳(能?)力を、活用させようとすることに
意識を向ける、それが魔力、であり
それらのちからを行使することを し向けるものが
悪魔である、自らが渦中のなかにいるものは
それらの作用に、自らがつかわれていることに
全く気付くことはない
台風の目のなかにいると、周囲にどのようなことが
起きているのかが、わからない、ということである、
その目を中心に台風という存在そのものは
構築がなされているのに、それらの事実を
客観点(的?)に外から眺め見る、ということを
その当事者が見ようとしない限り
自らの置かれている状況が どのようなもの
なのかを、知るよしはない
自らの小宇宙を、外から客観的に見る、という
習慣を持たない限り、人間という種のものは
その自らのつくり出した小宇宙のなかに、
とらわれ続けることになる、
その小宇宙の中心点につながれたまま
落ちてゆくのも、自由
あるいは、自らが、そのくびきを外し
現実の世界を直視しながら 前向きに努力をし
正しくはたらくのも、自由
どの選択をするのかは、ひとりひとりの にんげん存在に
ゆだねられ、時間の経過とともに
その時、その時の当事者の選択とともに
物語は進行を してゆく
おのおのの人間に、それらの判断はゆだねられ
耳のあるものは 聞きなさい、ということばのたとえ通りに
この現実世界のうつし世として、実際に
映し出されているものに過ぎない、
それが、物語宇宙なのであり、
ひとりひとりの人間がミクロコスモスと
言われる ゆえんである、

通信-09年6月10日

Thursday, June 11, 2009, 11:55
(2009.6.10 am8:20受)

神界が消却をされたように
生きた人間により近い層の神仙界
というものも 消滅させられた
なぜならば 人間が 自らの外部に
そういった層があること を 想定することにより
自ら自身の中にある古き神を乗り越え
新しい時代とともに生き歩むということ
は不可能に近い
自らが ある存在の意思により、その生を
まっとうして生き抜くという単純な真理に
気付かない限り 盲目の羊であるという選択を
選び続けることを 自らの選択決定とするものが
あまりに大多数を占拠しているため
目には見えない何らかの対象(物)に
いのり願い続けることで
自らの希望する結果を求め続けるものが
あまりに多く それが重大な罪であるという
認識すら 持ち得ない人間が この世
このちにおいては そのほとんどの割合を占める
それが、罪であるという認識すら 持ち得ることが
出来ないから 永遠に その おこないを繰り返す
ことに やっきに なる
不平等な はずがない 平等なのだろうという
異議申し立てのような言い分は、そのおもい
自体が うらみねたみそねみに 変化(げ)している
ということに 気付きすら しない
そこには 当然のことながら
自分自身の その おもいのエネルギーを
放出し続けている という事実は
当人にとっては 見えないもの あるいは
そんなことを自分が しているわけは ない、
という 自己正当化を肯定する 言い分
というものが、どっかりと 根を下ろしている
たとえ それを 第三者のものに指摘が
なされたとしても、その自らのおこない、
目には視覚できない行為が 自らの認識外
のものであるから、自分のものではない、という
本人にとっては当然のごとき理屈と言い訳が存在している
つまり、“わたしは何もしていない”、
と、言いたいわけである。
すでに学びを終えたはずのものが
このような意識を持ち、その消化不良の
ような、おもいを抱き続けることで
通常の、それらの知識を持たない人間に比べ
より大きなちからを発揮し、対象物へと
向けられ続けることになる、
目覚めなさい、といい続けていることの先にある
本来の正しき解答を、こころの奥底では、見たくは
ないという意識が存在をしている限り、
目をそらさずに真実に向き合い、その改善策を考え
乗り越えてゆこうという意志などは、生まれようがない
こころの奥深く、底の底のほうで、実はそれらの
事実を知るものがいて、それを直視したくは
ないから、もっともらしき言い訳を つむぎ出し
排出をし続けようとする、ある種の
言い訳増幅装置のようなものが、その人間の
内部に設置をされている、それが、黒い暗黒の芯の
中心点にあり、それを焼き捨てるという措置を
することもなく、暗黒のおもいのつむぎ出し装置
として その人間のなかに置かれているという事実に
当然のことながら 当の人間は気付きもしない、
つまり、自らの求めているものが何なのかを、
わかっていない、のだ
それらは2000年も前に、既にイエスが伝えて
いることに過ぎない、
“あなたがたは自らが求めているものが 何なのか
わからない”
イエスの飲んだ杯は 歓喜の美酒ではなく
毒杯だからである
願い求めた目的が違う、ということは
それぞれの人間が思い描いた、自らの希望
する世界観の宇宙への道のりを歩むということを
お伝えしなければならないのです
自らの意思決定と正しき方向性への道のりを
歩むことのできないものは、自らの希望する世界での
生存を続けることになるのです
よくよく お考えになってみて下さい
こころのなかの おもい と 口から 発せられる
ことばと 自らの実際に とった おこないは
全て その たましいに 刻まれ続けているのです
生きて活動をしている人間のエネルギーが
どれほどまでに強力であり それらが使い方によっては
どれほどまでに 影響を与えるのかを
あなた方には 既に お伝えをし
そして 実際に 学んだはずのものです
知るということは 担うということであり
その、ルールは 厳然たるものとして
既に置かれています
自ら自身を変えるのは 自ら自身の意志でしか
ありません
それが 自身をみがき 研磨するということです
自らのたましいが、にごりくもっていると、
そこには何も映し出されないのです
ご理解をして いただけましたでしょうか

通信-09年6月9日

Tuesday, June 9, 2009, 12:38
(2009.6.9 am7:45受)

たにんを ねたみ
呪うもの それが
あなたのうちに
あるかぎり
はたらくものとなることは
ありません
あなたのなかにある
その古き神の意識を
乗り越えないかぎり
目覚めて 世のために
はたらくということは
ないのです
無意識を 通り越して
内なる意識の 意識下で
自らの正当性を主張し
異議申し立てのようなことを
おこなうものが いる
それを それは自ら自身の
ものでは ない という
主張を し続ける限り
目的としている その場に到達することは
ありません
悔い改めて 自ら自身が
変わろうとしないものは
そうやって 自ら自身の
おこないに 気付くことなく
とり残されることに
なるのです
のどから 手が出るほど
手に入れたいと 思うもの とは
何なのですか
たにんを あやつる 能力
ですか それとも
自分の願った通りに
物事が うごかせる
ちから ですか
ち のものは
そうやって あさはかな
ちからを 手に入れるために
やっきに なり
そのために 自らを ささげ
いけにえの 羊
という 立場に置くことで
自らの保身 というものを
保つことに ちからを
そそいで きたのです
いつくしみ 相手の 苦難を
受け入れることを
選ぶもの
そのものたちは
自らの 道の あかるきこと
決して たがわない ということを
知るものです
たとえ その身に その苦難が
移ろうとも
正しき その生の あり方 というものが
何なのかを 知り
自らが 体現(顕?)することを
いとわない 者たち
だから です
勘違いや 思い違いを
しないよう
気を付けていて ください
して あげた
やって あげた という
おもいが
あなたのなかに ある限り
それらは 傲慢 という
ことばで ひゆ される もの
として
あなたの 存在の なかに
置かれます
その主張を するものが
一体 何なのかを
よく よく 考えて みて下さい
古き 神々は ひとのなかに
降ろされて
あなた方の意識のなかで
ある種の はたらきかけをするものとして
存在を しています
それを 知り 乗り越えない限り
次の 道へと 続く 扉を
開くことは できないのです
自ら自身に 思い当たることが
おありになる 方々には
はげしい 拒絶反応 が
もたらされる 可能性が
あるのです
その 自分は 悪くはない
という主張を し続けるものが
一体 何なのかを
よく よく お考えになって
みてください
その意識を 乗り越えないと
つぎの 道は 用意が なされて
いないのです
助くるもの は 自分です
それとは 別に
自ら自身を おとしめるのも
自分です
この法則が
なぜ 理解が なされないのでしょうか
外部の何らかのもののせいに
し続ける限り
目は、見えない状況にあるということを
知っておいてください
周囲の状況に 気をとられている間に
どんどん 自ら自身の 目指す道は
見えなくなって ゆきます
準備をしておく といい続けている
ことの 意味を 理解しておかないと
核心部分の重要な 真実に
いつまでたっても 気付くことなく
残りの余世を 過ごすことに なるのです
認識能力 というものは
アンテナ のようなものです
そのもの自身が みがかれて 研磨をされている
状況でなければ
重要な情報を キャッチすることは 不可能です
自ら自身を かえり見て 改善をしてゆく
努力を おこたるものには
届きようが ないのです
ご理解をして いただけましたでしょうか