通信-08年11月23日-2
Sunday, November 23, 2008, 16:19
(2008.11.23 pm2:51受)
さがしつづけた そのけっか
たどり着いたは
さいごの 扉
あおき みち は
しろき みち の
じゅんび と ようい
なり
その ようい なり
あしがかりと なるに
ふさわしい
そのじゅんびと
ようい なり
みちくさ くって いたものと
思うていては
なりません
じんせいに おいて
むだなもの など
何ひとつ 無いからです
じゅんび と ようい の
その意味を
知るときが
必ず おとずれます
それらは あとから
わかるもの
ひとりひとりの 意識下で
それらは 理解されるもの
地獄のような 苦しみ も
何かの 用意と
知るの です
じぶんは これを するために
それらの 道を
選んだ と
いつか 気が付く日が 来ます
それらは すべて
おべんきょう
もんだい解決するための
おべんきょう でしか
ないのです
あたえられた 宿題は
あなたが この世で
それらを学び
克服して 乗り越えてゆく
ための もの でしか
ありません
ただしく 自らの目的意識を もち
前を見すえて 対処をしてゆくことを
携えているならば
自らの 成すべき 役割というものは
かならず 見えて くるはず です
そこに 不安や恐れ というものは
ありますか
ありませんか
自分ばかりが 被害者で
自分は 悪くはないと
思い続けている限り
目の前に見えているはずの
正しき 道 というものは
見えません
どこへ向かって歩けばよいのかさえ
わからなくなります
怒りや憤慨を したままで
正しき 解決法は
見つかりますか
見つかりませんか
即座に こたえを 出さないで
冷静に 事態を客観的に
見る習慣をつけないと
いつまでたっても
思いや感情論で 自己判断を
下すものとして
存在することになる
そこには 自らの 正当性を
主張する
ひとりよがりな ひとりの人間
という こたえしか
出てきません
そのために
自分の小さな世界から 出て
離れた上方から
物事を見つめ直す必要が
あるのです
どうすることが ひととしての
正しき 解決法なのか
上に昇って 考えなさい
自らの 意識の上層で
考えなさい
というのは
そういう ことです
そこでは 自らの 私利 私欲
といったものは
みじんも 存在していない筈です
通信-08年11月23日-1
Sunday, November 23, 2008, 16:18
(2008.11.23 pm1:57受)
いと おかし
あな うまし
みこころの
てん(ゝ)なる を
はいだわけ
かんざ わけ
わけ つちて
つち おさめ
ものものよ
よこたへる
いと
をかしきは
くものいと
いと いと の
おさむるは
こうこうと
よじ のぼり
しかるべき
みこころの
いとをくみ
くみ ちがへ
いく いくは
よじのぼり
よこたへし
みの おきよう を
はるかなる
あしおとの
きこへ に
みみを すまし
かん ながら
いとの こを
すがし
あしかけ
よじのぼり
きかしめし
ひとのよに
とうとうと
ながるる
そのよの
さだめ
もつときを
さがしては
あしかけ
よにきく
さだめの
もとひ
くるすにて
おはりをつげる
そのよの
もの がたり
つる の なく
いっせいを
あげた
おはりし
さだめ
とうとうと
ながれ
とうとうと
おつる
みづのごとき
えにし
なるもの
よび あつめ
たまひ
その おはりと
はじまりを
つげ たまひ
きかしめし
つぎ(継?)のよの
ありかた
その みちの
あり かた
とおからず
みちびき
たまひ
ひとのよの
はるかなる
あしをとを
きかしめ
たまひ
みち みちなるを
みちなる を
いくたび もの
あら そひ
いくたび もの
おはり と はぢまり
いくたびもの
みのり と こかつ
いくたび もの
はんえい と
すいたい
いくたびもの
しるし と
おはり
いくたびもの
あしおと と
あしあと
いくたびもの
さだめなる
ゆふき
いくたびもの
とほとき
いのち
いくたびもの
よろこび と
かなしみ
いくたび もの
いかり と
にくしみ
ひと なるを
ひと なるを
ひ と なるを
ひ と なるを
ひとのいのちの
かえがたき
代償なるを
あらそひ も
にくしみ も
さだめなり
さだめ なり
おはらせる
ため
つかはされた
その
み と なりを
いかように
つかひ たまひて
その い(意?)を
なする
足どりと
あしあと
いかように
つかひ のこすもの と
なるのか を
みづからの
意志 と ともに
きめ たまひ
きめ たまひ
ものの じゅみょうは
数十年
あたへられたる
その み を
つかひ
のこする ものとは
何もの を
ひつく文書-08年11月17日
Monday, November 17, 2008, 17:31
(2008.11.17 pm4:33受)
ご報告
とりまいた環境の悪さに加えて
みずからの 招いた
招かざる客
さっさと カタを つけないと
余計なもんを 引きつ(継?)ぐ と
誰かが 判断したのじゃろう
見ばえの 良さとは タテマエで
おのれの招いた 原因と
その 結果の 処理をして
おかないと
つぎ(継?次?)の代へと 持ち越すと
ハッキリ 気付いて いたからじゃ
引継ぎ 守るべきものは
それが 何かを 知ったから
片付け せきにん
うけおいた
気が気で ない
じぶんで まねいた こと
だと しても
気が 気で ない
うすら寒さを 抱えたままで
この世を去ること
できないからじゃ
持ったまま 抱えたままの
その ものたちの 処理方法
しかるべき ひと が
やるべき やるべき
よごれは きれいに ぬぐい去り
そのち を きれいに してから
去るのです
おそうじを するのは
しかるべき ひと
しかるべき にんげん
きれいに 片付け 済んだなら
その場の 浄化は
済んだ こと
よごれ まみれて いるばしょは
片付け おそうじ
あな うれし
うれし うれしの この世と なりに
感謝 感激 あな うれし
ろくでもないもの
拾(ひろ)てきて
まいた タネ は 刈り取りを
じぶんで じぶんの 責任を
負うのは 義務と いうもんじゃ
つけた 足あと
くろ か しろ
それが 判断 されるの じゃ
せめて じぶんの おそうじは
じぶんじしんで するものと
ようやく 気付いて くれたかの
それが できたら ひとのぶん
持てるだけしか
入ってこん
持てる ひとには しょわされて
持てない ひとには ちょっとだけ
ピラミッドの 上下の ぎゃくは
誰が せおうて おるのかの
通信-08年11月10日
Tuesday, November 11, 2008, 13:53
(2008.11.10 pm0:50受)
ホサとは
ササエル 役わりです
しじされた 通りに
つきしたがって
従う のでは ありません
下で 支える ものでなければ
役割は まっとう
できない からです
ひとの うごきを 見ながら
何が 必要 な ことで
どう 判断を し
動くのかを
見定めて 行動を
起こす ことが
求められます
なんども 繰り返し
お伝え している ことなのですが
正しく 物事を 考え
判断をし
行動を する 為に
浄化と 上昇が
用意を なされて います
不安や おそれ
といったものが
頭を もたげて あらわれてくると
冷静な判断力というものが
ソガイされることに なります
慌てず 焦らず
すこしの時間においてでも
常に じぶんが
ひかりに つながっているもので
あることを
意識 し続けること
です
おそれや 恐怖 というものは、
倍へ倍へと 増幅し
あたかも
それが 全てであるかのような
意識の状態へと
変化をしてゆきます
お伝えをしているように
今の 世 では
ひとの出す
闇の エネルギー というものは
増幅を し続けて います
それらは
経済の 仕組と 結びつき
今までより より大きな
ひとの無意識下での
恐怖 というものを
あおり続けて いるのです
じぶんにとっての重要なものの
位置づけ というものが
明確に できて いないと
自らが この世で 生きてゆく上での
こころの より(拠)所
あるいは しじく(支軸?視軸?)
となるものが 何なのかが
わからなく なります
自らが めざすもの とは
何なのか
あるいは 向かおうとしている
方向性というものが
何なのかを
自ら自身が 把握しておく
必要が あるのです
見たことも なく
聞いた ことも ない
その 知識 というものは
受け入れることのできる人間と
できない人間 とに
ハッキリ わかれます
その中間 というものは
存在 していません
残念ながら その比率は
半々 では ないのです
何故なら ひとというものは
自ら 自身が 築いてきたと
信じたがっている ワク組みや
概念といったものから
はずれて 一歩前へ出る
ということを 望まない者が
多いから なのです
つまり 新しい ひとの かたちの
あり方を 選択しようとする人が
極端に少ない ということを
意味しているから なのです
居心地のよい 快適な世界が
好きなひとにとっては
受け入れ難い ことなのかも しれません
厳然とした ルールにおいて
用意が なされているのが
審判というシステム です
自らの行動や言動というものは
当然のこととして
こころの中の思い そのもの までもが
あらわにされるのです
その ルール というものは
すべての 人間に 適応されるのです
当然のことながら
言い逃れや 言い訳というものは
通用しない
事実は 事実として 正しく記録が
なされているからです
正しく ひととして
生き抜いた ものであるのなら
そのシステムとルールを
望み求めるものであるはずです
たにんと じぶんを
比べる必要など
どこにも存在していない
筈だとは 思いませんか
じぶん ひとりで その審判の場へと
立って 堂々と その
しんい を 問う 勇気が
有るのか 無いのか
その こたえは
あなた自身が 既に
知っている筈 だとは
思いませんか