2008アーカイブ-0229-0216

通信-08年2月29日
Friday, February 29, 2008, 16:02
(2008.2.29 pm1:39受)
 
くまがいの いとのさき
おつる みず
きしのそら
はいいろの みのさだめ
かくなりて
おとおとの しんのそら
みさだめて けう(ふ)にして
たちどまり あらそいの
いとのこを からまわり

通信-08年2月29日

Friday, February 29, 2008, 16:02
(2008.2.29 pm1:39受)
 
くまがいの いとのさき
おつる みず
きしのそら
はいいろの みのさだめ
かくなりて
おとおとの しんのそら
みさだめて けう(ふ)にして
たちどまり あらそいの
いとのこを からまわり
さしもせず
うごきた じくをも
とめむ(ん)と せしめ
うろたえも さまわりも
なすも なさぬも
ハリ の い も
みずぎわの ひきぎわに
たちどまり うごかせし
とも の い と
うごき つかまつりては
さざなみ の
たちどまり あしあとの
みじんのかけらも
しのばせし
くもの いと はいいろの
あやの しらべを
なし ぬる を
み の ゆへ(え) を
ち の ゆへ に
あらそいを
しづ(沈?)めるも しづ(静?)めるも
あやのいと とは
かくなりて
おくの つ の
せの つ
にぎりた くかじは
はいの めり
いき しを(ほ)
し しを(ほ)
いく たびの
ひき とぎ し しほ の
まえの めり
うつりた さき をは
まいの めり

通信-08年2月26日

Tuesday, February 26, 2008, 21:23
(2008.2.26 pm5:26受)
 
いき うつ し(のいし?)
————————–
ゆみ びとの
いしだたみ
てのなかに
はいらず は
けう こそに
みかえるの
とめどなく
きかしめて
はいの めり
くるすの つ
みことばに
さは ありし
かくなる を
とまどい と
うつわの なかには
ものふの よ
たらぬ もの
うゐ(い)のまつよに
たらぬもの
とうその うかじは
さわらぬ ものと
はいの まま
うつされり
うつした もの うの
とりわけ に
かなしみの うた
さざなみの
めんとめんとの
かさなり あいに
つれるよの
かじ びき を
さらしたまいて
みかじきの
きん しの いと なる
うよ の いと
かんの い と ま に
さら なる を
さらいた あしあと
さざなみの
つ ういた
美波(みなみ)の
ひき うつ しお に
とおきを みる めは
まつのよの
みいの みくらは
さんと しん
しまに たち うつ
さんと しん
きいの くに とも
さんと しん
はば まい
あずけた
うつりの りつよ
みくらと みくらは
うつしの
よくら
くらがり あるきは
よくらの ままに
はいのめり
いただくは
さがんの あしあと
うつした ままに
とおからず
ときのいと
やいうちぬ
うつりびと
とおからず
さきをみよ
くるすの いと とは
はんなりて
てつづきと
ぢつづきの
いみをなす
もろともに
けうのいと
さかしては
みなみのなみの
いきしひと
つくらつ(づ?)は
はいをみで
はいのたま
さかほこの
あじ すね
ひこ なる
まきおろし
たづねた さきなる
まきおろし
うん の えん なる
さためなり
くんしゅの えんとも
なりぬるを

通信-08年2月17日

Monday, February 18, 2008, 13:27
(2008.2.17 pm7:13受)
 
生きとし 生けるもの
全てに与えられし
使命とは
自らがつくり出した物語の
全責任を自らが
負うこと
狡猾な 生きざまを
したいと望むのであれば
するがよい
指示や司令のようなものを
あらわさなければ
うごきようが ないのですか
いつも いつも 一体
同じ事を いつまで あなた方に
言い続けなければ
ならないのでしょう
地図は一体何の為に
あるのかを
説明しなければ
ならないのですか
何故 あなたがたは いつも
指示待ち なのですか
これほど 口を 酸っぱくして
意志であると 言い続ける
理由が まだ 解らない
のですか
いい機会ですので
この際  ハッキリ 申し上げて
おきましょう
足を引っ張る にんげんは
要らないのです
何かの勘違いを していませんか
ぶら下がって 関係を保っておけば
どこかへ 連れて行ってくれるのだという
甚だ 恥ずかしい勘違いを
している方々が
どうやら 何人も
いらっしゃる ようです
“はたらく”ことの意味を
あれほどまでに しつこく
伝え続けている理由が
どうやら 全く 伝わって
いないようですね
宗教の延長上に あるもの
という とらえ方を
されているようでしたら
ハッキリと 申し上げますが
参加をしていただく必要性は
全く ありません
あなた方 一体 いつになったら
わかるのか
目に見えない そのエネルギーを使って
影響を及ぼし続けている
その責任を
取りなさい、と言っているのです
自らの頭で考え 思考をする
ことすら 出来ないにんげんは
必要ないと 言っているのです
一体何のために 精神学を
学んでいるのですか
お互いが お互いを そうやって
つぶし合い 自らの優位性と
いうものを 主張してきた
地球の古き神のすがたを
自らが そのまま うつして
あらわしていることに
何故気付かない
その姿そのものが目覚めて
いないものの姿を
あらわしているのです
ねたみや そねみ
嫉妬や 呪い
それらを放出し続ける
責任を、 あなたがたは
取らされることになる
精神学というものを
学ぶ ということは
自ら そのものの言動や
意識活動そのものに
責任が付随する ということ
なのです
お互いがお互いを汚染し合って
自分は悪くない
と言い続けている限り
生存している期間内に
目覚めることは ないのでしょう
時間は限られています
先のばしにするのは、おのおのの勝手ですが
それに応じて残りの時間が
減ってゆくという単純なしくみに、
そろそろ気付いたほうが
よいのかも しれません
来るものは こばまず
去るものは 追わないと
はじめから 伝えてありますが
教科書があるのに
学ぼうとする意志すらない人間のために
時間をさくつもりなど
ありません
ご理解いただいているはずの
ことです
一切のかかわり合いを
断ち切って
自らの頭で考える時間
というものをつくることが
必要なのかも しれません
他人ではなく、あなたが
あなたの頭で 自分で考える
という あたり前の事すら
出来ないよう なら
羊は羊のままで
いることを
選択する人生を送るしか
ないのかも しれません
自らが 進化し 成長し
変わろうとする 意志のない
にんげんは
はたらき手と なることが
できない からです

通信-08年2月16日

Monday, February 18, 2008, 13:26
(2008.2.16 pm8:55受)
 
つめよる 群衆の
息まくこえは
一体何を あらわすものでしょう
はなれた せきから
みをのりだして
わが身 わが身の ためだけに
おんけいと たすくるものを
もとめても
しんの い などは
つたわらず
とらわれの 身から 解放を
されることだけを
もとめて
すがりより ぶら下がる
たんなる おんけいをえたいなら
すくなくとも さきに
あらかじめ まなびを
すませてから
それが 最低限の
ルールでは ないのですか
なんども 何度も
しつこい ようですが
ひつようなのは
はたらく にんげんであり
自分が たすかりたい
にんげんでは ない
いつになったら
わかって いただけますか
じぶんばかりが
たすかりたい にんげんなど
必要は ないのです
恩恵をさずけてやる、という
ものたちに おかねを
支払い続けた結果
なにかの 正しいこたえを
えることが できましたか
ある種の忠誠心のようなものを
求められて、それに したがって
いわれるがまま
指示されるがまま
言いなりに なってきた
だけでは ないか
自らの 生きる 基準とは
一体、何ですか
指示された通りに、他者の
言いなりになって、存在を
することなのですか
自分自身の行動を、自分自身で
決めることさえできぬものが
向かう方向を定めることなど
できますか
すくなくとも、まず最低限、
知識を学んでください。
それが 基本です
土台さえ無いものに
何をどのように伝えても
それは 机上の空論でしか、ない
その知識を受け入れることが
できるなら、
浄化や上昇の意味、
というものを素直に
役立つものであることが
受け入れられる はずです
知識があり、
その基本的なベースというものを
携えていないと、空論だけの
たすけを求める思考に、
なってしまいます
何度も言うようですが
自らが 助かりたい人間は
必要ないのです
はたらかなければならない
意味を知り、その役割を
果たすための学びが
精神学 なのです
自らが助かりたい人間が(は?)
要らない、と 言っているのは
他のために 自が、はたらく
という基本を
受け入れたくない ひとたち
だからです
自分さえ、よければ よい、という
にんげんは 要らない、
と言っているのです
まだ、わかりませんか
精神学の基本を、まず
学んでください。