聖書の神は、マネーの支配者ではない。

聖書が、なぜ、聖書とされ、それが世界的に認められているかというと、やがて人間は必要にして充分なものを与えられる、という約束をしているからです。その約束をした神は、エルサレムの神殿の神の権威によって価値づけられた両替札を発行する権利を、両替商に与えたことはない、という証拠を歴史上に残すために、イエスの十字架上の死というドラマをつくった、または、つくらざるを得なかったと考えてみてください。この神のたくらみのプログラムについて、理解することができる知の体系が精神学というもので、この聖書のメインテーマが、文字情報として、公開され続けてきたものが、ゴッドブレインというサイトの光文書というものでした。そこでは、聖書の神は、言葉なのだとはっきり伝えられています。言葉がなければ、この宇宙のすべてのことを、理解することはできません。言葉が、物質のあり方を規定し、実体化させるといってもいいのです。その言葉の神が告発しているのが、神の権威を盗んでマネーというものに変え、それを使って、全てを独占しようとするものたちなのです。たぶん、そのマネーのノウハウを知る人間グループの神は、聖書の神ではありません。こんなことを知るために、二千年もの時間が必要だったのです。