新約聖書のヨハネの福音書の冒頭には、「はじめに言葉ありき」という有名なフレーズが置かれています。旧約聖書の創世記の第一章第三節には、これも有名な、「神は光あれといわれた。すると光があった」という言葉が躍ります。つまり、聖書というのは、言葉が光であり、光が神の言葉であるということを伝えるための書である、ということです。その聖書という書物の表紙に、ライトのイコンシール、裏表紙にダークのイコンシールを貼った時に、発せられている光というものは、聖書を光の書として読みたいと願う人間にとっては、そこに記されている言葉に光を発しているものと、そうでないものがあることを知らせる信号なのです。それによって、神の言葉と聖書記者と呼ばれる人間が書いた言葉の判別ができるように、なります。すると、聖書の神の秘密が、だんだん、分ってくるようになります。なぜ、この聖書という書物が、約二千年もの間、人間世界に強大な影響力を持ち続けたのかの秘密です。それを知るためには、人間の知識が、科学という、神を発見することなく、物質的宇宙の法則を見つける道を進み、その行き詰まりから、聖書の神を超えた神の領域に近づく道が必要だったのです。ここが、いまの人知の到達点です。