聖書の世界の人間にとって、神とは、言葉であり、光であった、ということは、人間は神の言葉を受け取り、神の光を見ることができたということです。人間の言葉は、文字が成立する前から、音としてあり、人間は音波という波動で、コミュニケーションしてきた訳です。では、神の言葉は、音波として、人間に伝達されたのかというと、音波なら、誰でもが聞くことができますが、聖書だけではなく、神の言葉を聞いた人間は、ダイレクトに脳の中に言葉が届いたと考えるべきなのです。同じように、神の光というものも、視覚的に現実の光として見るというより、たとえば、第三の目といわれるような頭の中の部位が、光を感知したというべきなのです。それらのことが示しているのは、人間の身体というものは、神の言葉なり、光なりという波動を受信すると、その波動を脳内において、言葉や光という情報に転換する能力を持っていることになります。そして、それらの能力は、過去の宗教のなかでは、一種の修行のようなものを経て、獲得されるものでした。日本では、その神の言葉だけではなく、人間の使う言葉そのものが、オトダマ、コトダマという一種のエネルギー体、つまり、タマとして認識されていました。それもまた、波動というものの一面なのです。