いまの時点で、精神学的な立場で、新約聖書の問題と終末の時期の問題を考えてみます。イエスは、神の名を利用して、金や銀と神殿公認の通貨のような木ぎれを交換していた、両替商たちに戦いを挑んで、当時のエルサレムの住民の多くの支持によって、十字架にかけられました。このことが、神知と人知の公式データベースに記載された時から、マネーの責任が問われることになるはずなのです。いまの地球は、マネーを支配するものが、人間世界を支配するという姿になっています。ほんのひと握りの人間の持つ富が、その他大多数の人間の持つ富を上廻るというこの世では、アメリカの大統領も国際社会の世論というものも、マネーによって買うことができるのです。人間は、そのような社会を、ある種の理想を求めた結果として生み出してしまったのです。そうした、マネー優先の世界で、マネーを生み出す戦争はなくなりようがないのです。その出発点に、イエスを殺したマネーの魔力というものがあることに人間が気付くタイミングが近づいているといってもいいのです。もしかすると、人間はマネーの発行権を正しき神に返すべきなのかもしれません。