ご参考になるかなー

2022年7月3日am9:50~受

どれだけ意識の中が、

苛酷な状況で、あったとしても、

その戦闘状態が、

いかなる状況であったとしても、

誰も、何も、ほめてはくれないので、

とりあえずは、自分で、自分のことを、

ほめてあげる、ということにする。

誰も、何も、ねぎらっては、くれない。

だから、自分で、自分のことを、

ほめてあげる、ということをする。

それとともに、人間は、

ある種の「希望」というものを持たないと、

生きてゆくことが

あまりにも、苛酷で、つらすぎて、

その時間的流れのようなものを

途中で放棄したくなる時が、

必ず、訪れる

誰も、助けてはくれない。

じぶん1人だけで、

たたかわなくてはならない。

誰ひとりとして、援軍には、加わってくれない

そのような状況が、続くと、

「この世に神はいない」という結論に

到ることになる。

誰かが自分のことを助けてくれるのではないか、

そういった甘い期待のようなものは

一瞬にして裏切られることになる。

“アナタのことを、助けてあげるよ”と、

耳もとで、囁くものが、何ものであるのかを、

今の時点では、はっきりと、

分かるようになった

それは、あたかも、自らが、

相手にとっての救世主であるという、

何かしらの仮面のようなものを、付(着)けたもの

それらのものの誘惑に

ほとんどの人間は、すがりつき、

そして人生を誤り、堕ちてゆくことにすら

気が付かない。

出口の見えない、堂々巡り、というものは

このようにして、人生の節目、節目に

訪れることになる

“あなた方の勇気が、試される(されている)”

という事態が起きた時に、

ひとつだけ、注意が必要な事があり、

それは、どのタイプの人間に対しても

同じことが言える類のもの。

“自らが被害者である”という主張を

手離すことが出来ないにんげんというものは、

必ず、何らかの主義主張を、

自らの防具のようなものとして、常に

用意をしていて、それらを、盾にして

自らの正当性を、主張し続けようと

するものである、ということ、

そこには「悔い改め」の意図は

存在することはない。何故なら、

自らが被害者であるという主張を

死ぬまで放棄をしたくはないもの達

だからである。急がねばならぬ、と、

言い続けているものの主張を、

聞こえなかった振りをし続けるもの達は

時間は、いくらでも許されていると

信じて疑わないもの達だからである。

“一刻も早く、始末をしなさい”と、

いい続けていることには理由があり、あなた方には

もはや時間の猶予というものが、

残されてはいないから、なのである。

“聞く耳を持て”、というそのことばが、

届くものには届き、

届かないものには、届かない、

それでも仕方が無かったのでしょう、としか

言い様のない事態が、もうじき、

訪れることになるのです。

“聞くものは聞き、聞かないものは

聞かなかった”。という事でしか、

ないからなのです。

(~am10:15)