〈プロローグ的モノローグ〉9

現在の科学では、自ら命を絶つ、そういう行動に人間を向かわせることを誰もが納得できるように説明することはできません。私の場合は、暗黒の底で、自分の内部を観察し続けることで、死への誘惑をする言葉が、どのようにして頭の中でくり返されるようになるのかを知ってしまったのです。それに気付いた時、これを人の世に知らせることが必要だと思ったのです。当時の知識で、それを伝える手段として思い浮かぶものといえば、詩であり、エッセイであり、小説といった文学でした。ところが、その頃の私の頭の中にある日本語では、三島由紀夫のように、自死に近づくものが文学性の高いものとして、位置づけられるという不幸な宿命を背負っていたのです。三島由紀夫は私小説を好みませんでした。自分の暗い情熱を文字に託して、他者の共感を呼ぶような、女々しい小説作法である私小説は、日本にのみ存在する文学形式ですが、それによって作家は生きることができるのです。それは日本文化の到達点のひとつかも知れませんが、どうやら自分の生きる道ではない、と青春期の私は考えたようなのです。しかし、たった一言で、人間を死に追い込むほどのパワーを持つ言葉を使ってしか、考えることのできない人間存在とは何か、というテーマがそこに見えていました。

(つづく…)

二千二十二年 七月十五日 積哲夫 記