〈プロローグ的モノローグ〉5

そんなこんなで、小学校は時々、不登校だったものの友達も増えて卒業。当時、住んでいたのは、元の東京拘置所官舎。あの東京裁判の死刑執行が行なわれた巣鴨プリズンが返還されて、職員の官舎なども整備されていたタイミングで、父親が、法務省の本省務めになったためでした。それが、中学一年の二学期末に、その父が、突然、広島拘置所の所長として、転勤することになったのです。普通、公務員に、そんな移動は起きないのですが、その背景には、後に映画にもなるヤクザの広島抗争があり、拘置所内でも、大不祥事が進行していたのでした。現実に、父は、命の危険にもさらされたようですが、任期中に、秩序は回復。次は、大阪刑務所に転勤ということになりました。この広島転勤で、はじめての広島弁に遭遇、自分のことをボクという東京っ子が、どんな目に遭うかは分りますよね。さらに、東京で行っていた中学は、あまりレベルが高くなく、広島に行ったら、教科書も違う、各教科の進捗もスゴくて、完全に落ちこぼれ化したのでした。青少年にとっては、こうした環境の激変というのは、引きこもりや、落ちこぼれのトリガーになるということを、イヤというほど体験させられたということです。

(つづく…)

二千二十二年 六月十七日 積哲夫 記